chapter8. take a wait  -凌ぎ-
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「チッ! 克晴、飛ばすよ!」
 叫び声と共に、車体が激しく揺れた。
 
 何度目かの、ホテルからの逃走中だ。
 体当たりをするように寄ってきた車をかわして、タイヤが悲鳴をあげた。猛スピードで、右折左折を繰り返す。
 周りを気にする余裕もない逃走劇の中で、中古車のボディは、赤いペイントも剥げてボロボロになっていた。
 今度こそ空港へ向かうのかと思えば、またホテルへ逃げ込む。
 
「こんなことしてて、何になるんだッ!」
 苛立ちも限界で、抱きしめてくる腕を睨み付けて振り解いた。
 ラブホテルに入ったって、ただ身を隠すだけだ。犯られるわけじゃないけど、常に俺は腕の中だった。
「安心するでしょ。……克晴だって、ずっと震えているし……」
 自分に言い聞かせるような、切羽詰まった声で……それでも薄ら笑いを浮かべながら、また腕を伸ばしてくる。
 
 家に戻った俺には、恵の記憶が鮮明で。
 写真すら見れなくて、愛しい顔は思い出の上塗りだけど……柔らかに触れる感覚は、手の中に取り戻していた。
 ───メグのパジャマが、俺を俺でいさせてくれる。
 萎えていた反発心が、復活した。
 誰がこんなヤツに、抱かれたいもんか! 纏わり付いてくる腕に言葉に、嫌悪した。
 
 それでもあの部屋から、メグの香りを何一つとして、持ち出せなかった。
 “もう会えない”
 そう思うと、思い出は辛すぎる。
 何もかも諦めて、メグの無事だけを祈る。
 ……そう必死に、思い込んだ。……決心はついたと、思いたかったんだ。
 
 
 
 
 
 何かおかしいと気がついたのは、最後のホテルを出た後だった。
 走り出した車が、窓の外に見慣れた景色を流し始めた。
「……?」
 街そのものから逃げ出して、遠退いていたはずなのに。
 ───ここは……俺ん家の、駅前の……!
 ……なんでこんな所、走ってんだ!?
 オッサンにそう文句を付けようとした時、車が赤信号で止まった。
 思わず見渡した景色の中に、知った顔があった。
 ……霧島!
 スーパーの駐車場のちょっと入った所で、突っ立っている。
 何やってんだ…あいつ。
 “霧島”ですぐに連想してしまうのは、やはり恵だ。メグの事で、頭が一杯になってしまったから……
「………………」
 
 その光景は、ウソだと思った。
 信じられなくて、思考が一瞬停止してしまうほど。
「……アッ!!」
 
 
 
 ───恵ッ!?
 
 もっと確かめたくて、助手席の窓に張り付いた。
 霧島の視線の先──ベンチに座って、フェンスに寄りかかっている。
 ぼんやりと、首だけこっちに向けて。
 ……髪がかなり伸びてる。手足も、妙にすんなりして……
 想像以上に大人びた様子が、目を疑うほどだ……でも…間違いなくメグだ……
 あの顔…メグ……可愛い俺の恵ッ!!
 
 
 その時、大きな瞳が真っ直ぐに、俺を見た。
「──────!」
 心臓が痛いほど、緊張した。
 この瞬間、お互いを認め合ったのかと……
 
「─────」
 ……いや…見えていない。
 恵の目には、何の変化もない。
 ……ガラスが邪魔してるのか?
 ちっぽけな車の窓一つだ…俺が気付いただけでも、奇跡なのかもしれない───
  
 でも…でも………!!
 
 こんな近くにいるんだ! 飛び出して行きたかった。
 叶わないまでも、ドアを叩いて窓を開けて、知らせたかった。
 俺がここに居るんだって!
 見つめ合っているのに……見えてないなんて……!
 
 ────クソッ!
 
「クソッ…クソッ……!」
 できない!
 飛び出していくことも、俺がここに居るって言うことも!
 
 恵には、それが一番危険なんだ。……その恐ろしさの真の意味を、今こそ理解した。
 
 それでも体が勝手に動き出しそうで、俺はシートの上で、突っ伏した。
 部屋に戻っても、遠かった。
 恵との距離が、判らなかった。
 なのに、今こんな近くにいる……
 
「ウ……ウァ…ッ!」
 我慢できない。何もかも、張り裂けそうだ。
 体中で叫んでる…メグ! ───メグッ!!
「……ウッ……アァッ……アァァッ!!」
 頭を掻きむしって、歯を食いしばって、嗚咽を堪えた。
 ───なんで…なんで今こんな形で、俺に見せる!?
 怒りすら沸いてきた。
 諦めなければならないのなら、写真一枚、見れなくて良かったと!
 この手には戻らないメグの思い出を、だから俺は全て置いてきたのに!!
 車が走り出したのが、揺れで判った。
 ───離れていく……本当に、離れていく……!
 たった数秒間、恵との再会……そして今度こそ、紛れもない別れだと悟った。
「──────!!」
 体中が引き千切られる──
 俺は顔を上げることも、声に出して泣くことも……もう一度振り返ることも、できなかった。
 
 
 
 
 
 
「着いたよ。ここで暫く、匿って貰う」
 そう言って連れ込まれたのは、教会だった。
 
 震えっぱなしの俺を、何も訊かない神父さんは雅義といっしょにオロオロと心配した。
「少しでも、食べないとダメですよ」
 俺が雅義を激しく拒否するから、配膳は神父さんがしてくれていた。
「……………」
 この人に当たり散らすわけにいかず、俺はただ、ベッドの上で首を振った。
 あのニアミスで受けたショックは、自分自身どうしようもできなくて。
 焦れるのに、体が動かない。
 “早くグラディスという男に会って、チェイスを止めさせなければ!!”
 蹲って動けないまま、それだけを自分に言い聞かせた。
 俺の生きる目的は、それ一つに向かって行った。
 
「迷える子羊……入れられないのなら、吐き出してしまいなさい」
 神父さんは常に側にいて、窒息しそうな俺の呼吸を宥めてくれた。
 不思議に落ち着く声で、歌うように話す。涼やかで凛と響く振動は、落ちるように俺の中に入ってきた。
 でも二言目には、大きな声。
「食べ物の話では、ないですよ!」
「…………」
 俺の反応を見るように、少し黙る。
「……フォッ! あぁ、それくらい判りますよねぇ!」
 耐えきれなくなったように、自分から笑い出した。
「言葉を吐き出して空っぽになれば、お腹も空くからねぇ! フォフォフォッ!」
 この不可解な叫び声が、独特の笑い方だとは…初めは分からなかった。
「…………」
 俺が聞いていようがいまいが、神父さんは笑いながら横で話し続けた。
「告解ではなく、質問でいいのですよ。あなたはカトリックではないのだし、わたしに答えが見つかるかは、判りませんけど。フォッ!」
 ……コッカイ?
 聞き慣れない単語がいくつもあったけれど、それも段々判ってきた。
 ……懺悔のことか。
 その時、妙にそれが胸に引っかかった。
 ………俺の罪って、なんだ?
 
 
 4階建ての小さな教会の一番上に、俺たちは匿われていた。
 底抜けに陽気で明るいこの神父さんは、いい運動になるとニコニコしながら、毎朝上り下りしてくれる。
 頭頂部には髪が無く、後頭部に弧を描く長めの白髪はクルクルと巻いている。
 まん丸い顔に首は見あたらず、スカートのように足首まである真っ白い服が、襟首を顎に食い込ませていた。
「私に合うアルバが…あ、この服のことですけどね。このサイズがなくて、困っていますよ、フォフォッ!」
 苦しそうに顎を取り巻く襟を引っ張りながら、大声で笑う。
 俺が食事を摂ると、雅義はもちろん神父さんも、自分のことのように喜んだ。
「ウマいでしょう、ウマいでしょう! これは子供達にも大好評のシチューなんです」
 下の階では、数人の身寄りのない子供を預かっているという。
 自分がキッチンを手伝う時は、味見しながら大半を食べてしまうのだと、恰幅の良い体を揺らしながら、また大声で笑った。
 
 気さくなジョークを繰り返して、喋るたび、一人で大声を出して笑う。
 およそ“神父”というイメージからは逸脱したようなひょうきんさに、俺はぎこちないながらも、笑顔を返すようになっていった。
 
 部屋は小さく、真ん中にスペースを空けて、左右の壁にベッドが二つ。
 俺は廊下側で、足下に木製のドアがあった。
 雅義側の壁には小さな窓が付いていて、常に明るい日差しが差し込んでいる。
 雅義はそっちに腰掛け、俺の様子をじっと見ていた。
 
 
 
 
「……神父さん……言えないって、罪ですか」
 
 雅義がいない時、俺はここに来て、初めて口を開いた。
「…………言えない?」
「……自分を保つために……話せないことがあるって……」
 それって、罪なのか…?
 “懺悔”というキーワードで、ずっと引っかかっていた気持ち。
 俺のせいで恵が危険な目に遭うなら、それは俺の“せい”だ……。
 でも、元はと言えばあの悪魔だろ?
 アイツがしたことを、俺は隠した。そのせいで、悪夢を断ち切ることができなかった。
 でも、それって罪なのか?
 もし、それを言うなら……メグを愛してしまったことじゃないか。
 あの子にすべてを……俺の総てを懸けてしまったことが……
 
「難しい質問ですね…」
 俺の声に驚いたように目を丸くしてから、神父さんは静かに微笑んだ。
「その前に…ちょっと待ってくださいね」
 何をするのかと思えば……配膳に使っている盆を立てて、二人の顔の間に挟んだ。
「?」
「さあ…これで、あなたのことは私にはわかりません。もう一度…もっと詳しく、質問してみてください」
「………!」
「ここでの会話は、父なる神しか聞いていません。もちろん秘密厳守です」
「………」
 丸い木の盆で顔を隠して、ボリュームのある肩を両側からはみ出させて……
 通常なら、かなり笑ってしまう情景だろう。
 でも今の俺には、助かることだった。
 神様なんて、信じてないけど……
 俺のプライベートにまるっきり干渉しない相手なら、何か話せる気がしたんだ。
 
 
 
 
「……愛って、なんですか?」
 
 
 
 どう言えば良いのだろう。
 迷いの正体がわからなくて……改めて言葉にしたのは、そんな疑問だった。
「……………」
 神父さんは何も言わずに、俺が探し出す言葉を待ってくれる。
 
「俺は……自分の総てを懸けて、一人の子を愛しました」
 恵が生まれた時、小さな手をぎゅっと握って俺の心まで掴んだ。
 弟だ…この世にもう一人、血の繋がった兄弟!
 父親の愛情が変に乾いていると、その頃の俺はもう気付いていた。
 だから温かい恵を、誰よりも身近に感じた。
 ……可愛くて可愛くて、両親にすら世話をさせなかった。
 そして、あの事件が起こってからは……
 あいつに潰されないように。俺が俺として、いるために。縋り付くように、メグを必要とした。
「その子は…俺に応えてくれて……」
 愛してる…メグ……言葉で伝えた。何度も何度も…繰り返し。
 そして笑い返してくれる…手に取るようにわかる、恵の優しい心。
「ずっと俺が守るって…ずっと一緒にいるって、約束して。…そうできるって信じていたのに」
 
 
「……離れなければ、ならないのですか?」
 黙り込んでしまった俺に、盆の向こうから優しい声。
 俺は拳を、握りしめた。
「…………はい…」
 抱え込んで…放り出すんだ。説明も無しに。
「それが…裏切りになる……そう思うと、辛くて…」
 正面に掲げられた盆に、一瞬だけ見た最後の恵が浮かんだ。
 ───フェンスによりかかるようにして、面やつれした顔だった。
 輝いていた笑顔を、あんな風にしてしまったのが……守ると誓った、この俺だなんて。
「……こんなことになる危険性を、残したままだった俺が…悪いんですか…?」
 どうしても答えが出なくて、前に進めないでいた部分。
 恵を巻き込んでしまったことを、責め続ける。自分を、あの悪魔を。
 でも……愛してしまったことは……?
 それ自体が、いけないことだったのか。そのせいで俺が、メグを不幸にしてしまったのなら……
 
「……んんん…難しいですねえ」
 盆を下げると困り果てた顔で、神父さんは溜息をついた。
「わたしは他の優秀な神父様のように、上手く導ける言葉がなかなか出ませんので……」
 俺の悩みを自分のことのように、眉を顰めて唸っている。
「………………」
 その真剣な姿を見ていて、ふと昔の自分を重ねた。
 恵の悩みは、俺の悩みだった。
 メグが泣かないように。困ったことがあったら助けて、わからないことは相談に乗って……
 俺の持つ、知識の限りを教えた。
 俺が変になって恵を拘束し出さなければ……あの子は、笑顔でいられたはずだ。
 “メグを守る”…それが俺の愛だったはずだ。
「神父さん……その子のために何かしてあげたいと思うのは……純粋な想いですよね?」
「……はい。相手のためを想う愛は、素晴らしいと思いますよ」
 神父さんも、ゆっくりと頷いた。
 俺は……取り巻く状況に、すっかり脅えて。
 悲しませてしまったことばかりを、悔やんでいた。
 ───違うんだ。
 “幸せになってほしい”と願う。
 いつまでもあの笑顔を見せてほしいと……。たとえ俺が側にいなくたって、それは同じことだったんだ。
 
 
 ……何をグダグダ、悩んだりして……馬鹿か俺は……
 そんなの、メグのためなんかじゃない。
 
 ───やるべき事は、最初から一つだ。
 
 
「……ありがとうございます。神父さんのおかげで、悩みが吹っ切れました」
 眼に力が戻った気がした。
 今までになかった気力で、神父さんを見据える。
「…そうですか?」
「はい。俺…その子を泣かせることを、これ以上は許さない。それだけを、貫きます。……たとえ自分に、何があっても!」
「……………」
 聞いてもらえて、気持ちに整理がついた。
 モヤモヤがちょっと晴れて、俺は先のことばかり考え出していた。
 心配そうな神父さんの眼差しにも、気がつかないほど。
 
 
 
 
 
 
「克晴…話せるようになったの?」
 携帯を畳みながら、雅義が戻ってきた。
 子供達の様子を見なければと、下りて行った神父さんと、入れ違いだった。
「………………」
 
 
 たった今まで、隣りに太陽があった。
 眩しくて温かい部屋が、いきなり冷たい闇へと暗転し、悪魔が戻ってきた……
 それくらい温度差を感じた、瞬間だった。
 


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