chapter14. Only you -ただ、君だけ-
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 3
 
「自分で取れ。わたしには、関係ない」
 
 じっと見下ろしてくる双眸は、瞬きもしない。大理石の彫刻のようだ…血の気もない。
 冷淡な視線と口調で、薄い唇はそれだけ言った。
 
 
「──────」
 さっきと同じ……にべもない答え。
 感情を掻き消した酷薄な顔からは、僕を“面白い”と笑った空気など、消え去っていた。
「…………」
 手元に視線を落として、布団をぎゅっと握りしめた。
 
「………そう…だよね…」
 虫の良い頼み事を、しちゃった。咄嗟とは言え、そんなこと……
 僕のせいで、傷つけてしまったのに───あれは、僕が嵌めたプレートなんだ。
「……僕が、取り戻さなきゃ…」
 半端に起こしていた体に力を入れて、よろりと立ち上がった。
 一緒に立ち上がったグラディスは、何も言わない。腕を組んで、天井を見上げている僕を冷たい眼で眺めている。
「─────」
 ここに放り込まれてから、毎日見上げ続けた、縦横に走る細いパイプ…配線。
 あの隅のどこかに、僕が投げ隠した鍵がある。
 
 
 克晴……
 一緒にいたくて…解り合えると信じて…さんざん引きずり回して───
 最後は、一番最悪なこんな場所に、置き去りだなんて。
 
 
「……くッ」
 肩に、腰骨に、ズキンと鋭い痛みが突き抜ける。
 それでも、壁際にある発泡スチロールの箱を押して、位置をずらした。
 適当に積まれたサイズ違いのそれは、目の高さまであった。この上に立てれば、天井に手が届くんじゃないか。
「……あ」
 登ろうとして、手をかけ足をかけ、体重を乗せた途端、箱が手前に崩れそうになった。
 慌てて体勢を保とうとして、踏ん張ったら───
「ゥグッ…!」
 腹筋に力が入って、その瞬間、内蔵に激烈な痛みが走った。
「…痛ッ!」
 膝が震える…堪らなくて、後ろに尻餅を付いてしまった。
 
「……くっそ…」
 ……もう一回…! 転んだ衝撃はもっと痛かった。じっと耐えて立ち上がると、今度は慎重によじ登ろうと、箱のズレを直しながら、そこにしがみついた。
 でも、手も足も、体を支えるほどの力が入らない。何回試みても、上手く登っていけない。
 
「ハァ……ハァ……」
 
 息ばかりが荒くなって、脂汗が額に浮かんでいく。
 押さえてくれたって…いいじゃないか…
 焦って、ちょっと悔しくて、そんな期待もしないことを思ったりして……
 不安定な箱も、幾度となく崩れた。
「──うわぁッ!」
 叫び声を上げては床にもんどり打って、意識が飛びそうになった。その度、仁王立ちに見下ろしてくるグラディスの足先が、目に入った。
 ………ハァ……
 先の尖った白い革靴は、一歩も動かない。
 辿って白銀塔の上の方まで視線をもっていくと、冷酷な眼……綺麗に薄い唇を結んで、何事もないように僕を見下ろしている。
 
 ───明日…僕は本当に、連れ出されてしまう。
 それに気が付いては、我に返った。
 ………鍵を、取り戻さないと……その思いに駆り立てられては、また起きあがった。
  
「……痛ッ…!」
 何度目か落ちたときに、肩に今までにない痛みが走った。
 やばいかな…右手で激痛を押さえても、鈍痛が首の方まで響く。
「─────」
 起き上がれなくて、そのまま目を瞑った。
 
 ……かつ…はる……
 
 プレートを繋いだ時の顔が……浮かんできた。
 “アッ…!?” そう小さく叫んで、いつも……悔しそうに、睨むんだ。
 胸が痛くなる。
 切なくて、抱き締めて、どれだけ“好き”と言っても、心から湧き上がる想い…。
 その熱情を、どうしようもなく掻き立てられた。
 あれは………僕の克晴の、顔だった────
「………」
 瞑っている目頭が、熱い。
 あのマンションでの日々が、嘘みたいに……遠い。
 
 ……ダメだ……僕が…弱気じゃ……ダメだ……
 
 
 
 
「そんな思いをしてまで、まだ鍵に拘るのか」
 
 なんとか立ち上がった僕に、グラディスが低い声で言ってきた。
「そんなに克晴の所有者で、いたいのか」
 
「……ハァ………」
 僕はそれに答えないで、また発泡スチロールに取りかかった。
「…ハァッ……くそ……クソッ」
 これで最後…今度落ちたら次は無い……その一念で、登っていった。
 やっと一番上まで登り上がって、壁にへばりついて立ち上がった。
「ク…」
 手を伸ばすと、指の先が掠る程度には、天井に届くのに……
「……もうちょっと…」
 つま先立ちでも、パイプを掴めない。膝がガクガクしていて、踏み台にしている箱が揺れた。
 
 
「いい加減にしろ……お前を助けないぞ」
「………え?」
 
 険を帯びた声に、思わず後ろを見下ろした。
 眉を顰めて、微かに不機嫌な色を作った眼が、下から僕を見上げている。
「─────」
 初めて見るグラディスのそんな顔に、驚いた。
 ……やっぱり……
 そう思わずに、いられない。やつ自身、まるで気付いていないようなのが、また奇妙で……。
 でも、そんな見え隠れし出した感情なんて……僕だって、知るもんか。
「……願ったりだね」
 それだけ呟いて、また天井を見上げた。
 腕を伸ばしてどこかを掴めれば───反対の手で、配線の裏を探れるんじゃないか……
 必死だった僕には、後ろの溜息のような呼吸も、何かの会話も、耳に入らなかった。
 バランスの悪い箱の上で、無茶をした。
「アッ……!」
 ジャンプして伸ばした手がパイプを握り損ねて、一瞬指でぶら下がった状態から、滑り離れた。
 
 ───────!
 
 硬い床に、今度こそ叩き付けられる……!
 足から落ちながら、もうダメなのかと、スローモーションのように意識が駆け巡った。
 たぶんもう、僕は動けなくなる。そしてひとり連れ出されて……メイジャーかチェイスが、あの鍵を手に入れる。…そして、克晴は────
 
 
「……あ!?」
 
 ズシッと自分の体重を感じたものの、衝撃がゆるくて、驚いた。
 僕の体は、いつの間にか部屋に入ってきていた男二人の腕に、受け止められていた。
「────君たち…!!」
 
 同じ顔が二つ。
 アジア系の黒人のような、すっきりとした顔立ちの青年たちは……
 前から影の存在みたいに、グラディスに付いている双子だった。オフィスを、裏から出入りしていたのを憶えている。“玩具”だった僕が、話しをすることなどは無かったし、名前も知らないけど……
 
「………………」
 本当に驚いて、腕の中から見つめ上げた。
 ……連れてきていたんだ。
 この二人も、あの頃のままだった。浅黒い肌で、黒の巻き毛を後ろで束ねている。真っ黒で大きな目が、まだ少年のような幼い印象を作っている。
 
 ニコリともせずに、僕をその目で確認すると、床にそっと体を下ろしてくれた。
「……あ」
 かと思ったら、何も言わずに長身を活かし、いきなり発泡スチロールの箱を踏み台にして、天井のパイプに飛びついた。
 二つのしなやかな体が、見事な懸垂で天井の一角を動き回ってほんの数分も要さずに下りてきた。
 
「……ありがとう」
 差し出してきた鍵を受け取って、僕は起き上がれないまま、二人を見上げた。
「─────」
 何も言わない。すっと、主人の後に下がった。
 長身の双子より、グラディスの方が更に上背がある。眩しい三角形のコントラストを作り上げている中心の男にも、礼を言った。
 
「……グラディス……ありがとう」
 
 手の中に握りしめた、馴染んだ感触に感動して……拳が振るえた。
 3cmに満たない、楕円の薄っぺらなコントローラー。たったこれだけの物だけど、計り知れない威力を持つ。
 ───良かった……良かった───
 どれだけ心がほっとしたか…苦しかった後悔が、救われたか………
「ふ……僕の……鍵だ……」
 守り切れたんだ────
 僕は、本当に感謝を込めて、グラディスに再度、熱くなった目を向けた。
 
 
「二人が勝手に、動いただけだ」
 冷たい目線、冷たい声が、短く言い捨てる。
 
「…………」
 ───これはグラディスが、よく使う言葉。
 “命令などしていない。自分は、何も関与していない”
 無関係な傍観者…そのスタンスを、常に保っている。……でも、命令なんて、していなくたって…。
 
「マサヨシ」
 腕を組んだまま、銀色の双眸が静かに見下ろしてきた。
 冷酷に響く声と、目線。僕の独りよがりな妄想など、終わりだとばかりに、空気を変えた。
「─────」
 ……緊張を取り戻した僕は、横たわったまま硬直して、声の主を見上げた。
 ギリシャ彫刻のような顔が、冷ややかな眼で、ずっと見下ろしてくる。
 動かない表情は、冷然としすぎていて……生命の熱流すら無いように、不気味なほど白い。
 
 
 
「克晴を、助けてやっても良い」
 
 
「………え…」
 滑り出てきた言葉に、思わず上体を起こした。
 
「が…船を下りたら、バラバラだ」
「──────!」
「一緒になど、居れない。二度と会えない……それで良いな」
 
「…………二度と…?」
 横に手を突いて体を支えながら、ポカンと口を開けてしまった。
 ───僕はいずれ、チェイスに殺されてしまうかも……もう克晴とは会えないのかって……そんなことは考えていた。
 でも、二人でこの船を下りれるなら……ここから解放されるなら………?
 
 
 ずっと、この腕に抱えてきた。
 小さな克晴──車で、ホテルで……
 育ってからも──二人だけの城で……
 いつかあの眼が、僕に笑ってくれたらと……温もりも、匂いも、息遣いも……
 全部僕だけの物にしておきたくて。
 
 克晴を奪って僕の世界をもぎ取ろうとした、長谷川部長を刺してしまった。
 もう何処にも、居場所がなくなっちゃったけど、克晴さえ、居てくれたら………
 未来も、身分も、全部捨てても、ただ克晴……君がこの腕に居たから……
 ずっとずっと、そう思って……
 
 
 ……繰り返す。
 どんな風に別れても、どんなに離れていても、求めてしまうんだ。
 また会いたい。また抱きたい。
 諦めきれない想いが、湧き上がってきては、少しのチャンスにも縋ってしまう……
 
 
 
 開いていた口が、いつの間にか奥歯を噛み締めて、首を横に振っていた。
「………………」
 言葉にならない声に、グラディスは、ますます冷ややかな眼で、僕を見る。
「それくらいの条件、当然だろう。お前の虫の良い願いだけで、メイジャーに貸しなど作るものか」
 はなから僕が、承諾なんてできないと……
 判っているような、冷笑────
 
 試したのか…
 それとも、もうとう助ける気なんて…なかった?
 
 これで終わりだと言わんばかりに、腕組みを解いて、長い前髪を掻き上げた。
「明日、迎えに来る」
 
 
 
「ま……待って……」
 歩き出しそうな白いスーツズボンを、掴んでいた。
 
 二度と会えない───それが僕にとって、どんなことか。
 克晴が誰かに微笑んで、誰かを愛して……それを、違う空で堪えながら、生きて行かなきゃいけないって……ことなんだ。
 あの眼を見ることも、肌に触れることも、腕に抱き締めることもなく───
「………い……」
 拳がブルブルと震えた。
 ……グラディスの言うことだ、本当に、二度と会わせてくれないだろう。
 引き剥がされたまま、死んでしまうのと、違う。
 自分で決断して、克晴を諦めるなんて……諦めるなんて────
 
 “お前は、克晴に何をしてやれる?”
 メイジャーの言葉が、脳裏に響いた。
 
 ───あ……!
 
 “お前は克晴の、何だ……何がしたいんだ?”
 
 ………そう言われて、戸惑ったんだ、あの時。
 ……何がしたい……って… 
 “克晴と”……ずっとそう思っていたけど、そうじゃなくて……
 “克晴に”……克晴のために、僕は─────
 
 
 グッと、握ったスーツズボンを、力を込めて引っ張った。
 
「い…… 一緒に……居れなくても……」
 
「船から下りたらバラバラでも……」
 
 
 縋るように、銀の洪水が降り注ぐ中心を見上げた。
「克晴が…助かるなら────」
 
「………………」
 細い眉が、持ち上がり、驚いたように銀眼が見開かれた。
「……手元に置いておけなくても、いいのか」
 
「…………!」
 問われて、自分で口走った言葉に気が付いた。
 ───いいわけ無い……
 手放したいわけ、ないだろう…! でも、このままでいいはずは、もっとない。
「───────」
 意地悪な質問に、僕は、涙を流しながら答えた。
 
 
「もう会えなくても……克晴が助かってくれれば……それでいいから…」
 
 
「─────」
 目を瞠ったまま、グラディスの口が何か言いかけたとき───
 
 
 
 
 
 
 ────え…? 
 
 
 
 何か、聞こえた。
「──────」
 
 もう一発………
 
 
 ────銃声!?
 
 
 遙か遠くなようで、妙にハッキリと。
 僕がハッとして、それに気が付いた時には、黒い双子はいなくなっていた。グラディスの顔も、いつになく眉が顰められている。
「明日、迎えに来る」 
 それだけ言うと、白い姿も鉄扉の向こうに消えていった。
 
「──────」
 眩しい銀の輝きが、フラッシュを見たあとのような、ぼやけた残像を残した。
 
 
 
 ……銃声なんて、何があったんだ?
 ──その不安と…
 “明日、迎えに来る”……それは、決別の時。
 僕はやっぱり動けなくて……心も体も、痺れたようになっていた。
 
 
 
 
 
 
 ────なのに、来るはずのグラディスが、姿を現さない。
 それどころか、船内の様子が、おかしくなった。
 
 何事か……あの銃声は、関係があるのか? ……克晴は?
 色々、聞きたいことがあったのに。あのバンダナ男まで、この倉庫に来なくなった。食事は見たこともない男が、運んで来る。
 
 
 そして僕は聞いた。通路に響く、まさかの会話を────
 
 
『グラディス、アレ、本当にすげえよ!』
 耳にするだけで、怖気が走る……チェイスの声。
 
『誰がメイジャーを消したか……今、どれだけの奴が知っているよ?』
『漏らさなきゃいいんだ。アイツは、勝手に死んだ!』
 
 
 
 ────え……
 エッ……メイジャーが……なんだって……!?
 
 その驚きのあとに……もっと恐ろしい言葉が───
 
『来いよ、カツハル!』
 
 
 グラディスが再び現れたのは、それを聞いた翌日だった。
 


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