chapter1. break out- 闇の幕開け -
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……いったいどれくらい、時間が経っているんだろう。
ここに連れてこられて、何日過ぎたのか、まるっきり分からない。
部屋を見回してみても、小さなガラスのローテーブルが枕元に一つあるだけだ。家具や生活用品の一切合切が、何もなかった。
時計もない。壁にはドアが二ヶ所。窓には高い天井から遮光カーテンが下がっていて、光も入ってこない。
「痛っ……」
立ち上がろうとして、後ろの痛みに思わず呻いた。
「くそっ……」
苦痛を堪えながらベッドから降りると、窓の方へ歩いた。久しぶりに立ったせいもあり、足元がふらつく。
カーテンにしがみつくように、窓際にたどり着いた。隙間から外を覗いて見ると、眩しい朝日が目に差して、ズキンと傷んだ。
……まだ、かなり朝早いのか?
顔を顰めながらも目を凝らして、奥行きのある広いベランダと、コンクリートの手摺りを見渡した。その隙間から見える下界には、車や人影が少ない。
遠くには、立ち並ぶビル群、マンション……都会の片隅だということは、すぐに判断が付いた。
「…………」
俺は、とにかく早く帰りたかった。
カーテン伝いに部屋の隅まで歩いて、突き当たりを曲がり、近い方のドアを開けてみた。こっちはオッサンが出て行ったドアじゃない。そこはトイレと、バスルームだった。
壁を伝ってL字型に歩き、もう一つのドアに近寄る。ベッドが寄せられている壁だ。
そのノブを、両手で掴んで回した。
……ガチャガチャ。空しい音だけが響いた。
「─────」
予想していた事とは言え、ショックだった。内側からは鍵を掛けることも外すことも出来ない、そのドア。
「くそっ」
舌打ちをして、いかにも頑丈そうな板を、束ねられた拳で叩いた。
もう一度、もっと力を込めてノブを回す。うるさい金音が鳴るだけで、何をしたって、びくともしなかった。
何度も試しているうちに目眩がして、その場にずるずるとへたり込んでしまった。
素肌の脚に、柔らかい絨毯が直接触れる。股間にも当たって気持ち悪かったけど、構っていられなかった。
……動けない。
体力が、スタミナがまったく無い。
……栄養剤だって?
シャツをずらして自分の左肩を見た。二の腕と、肘の内側にも注射針の痕が、いくつも残っている。
……いったい、どのくらい何も食べて無いんだろう。
緊張していて、空腹感なんか無い。でもこれでは、気力も体力も奪われてしまう。
───帰りたい。
呆然としながら、それだけを思った。恵の所に帰りたい。
「メグ……会いたい」
声に出して、呼んでみる。柔らかな髪、可愛らしい微笑み。差し出してくる腕…恵の姿が、鮮明に浮かび上がってきた。
───恵!
ぎゅっと目を瞑って、心で叫んだ。心配でたまらない。こうしている間も、恵は一人で待っているだろう、ずっと泣いてるだろう。
ちゃんと食べているのか、例の貧血も気になる。学校へは、行っているのか。……父さんはこの事を、恵に何て説明しているんだ?
「────フゥ」
座り込んでいても辛い。深く息をつきながら、ドアに頭を当てて寄りかかり、上半身を支えた。
……なんでなんだ。
自分の今の状況が、まだ信じられない。こんなことって、あるのか?
奪われた自由、陵辱された身体。それだけが、今の俺の全てだった。
───冗談じゃない。
こんなところ、早く逃げなければ……
でも俺は、改めて呆然としてしまった。
床にへたれ込んで、動けない。両手を革ベルトで縛られていて、立ち上がるのにも不自由だ。しかも身につけているのは、前をはだけている長袖シャツ一枚だけ。
こんな状態で、どうやって逃げだせばいいのか。
でも…それでもここから逃げなければ、俺に自由はない。恵にも会えない。
それに、この先何をされるかわからない恐怖が、あった。
とにかく裸なのが、嫌だ。
俺の来てた服は…下着や着替えなんかは、ないのか…?
もう一度部屋を見渡してみても、この収納など何も無い部屋に、衣類なんかあるはずがなかった。
俺は軋む身体を動かして、やっと立ち上がると、のろのろとバスルームに向かった。
喉が渇いていたので、洗面台の水だろうが、両掌に受けながらそこに唇を寄せて、気の済むまで飲んだ。トイレにも行き、やっと少し落ち着いた気がした。
身体を見てみると、汚れてはいない。オッサンなりに清めたらしい。でも、もっと綺麗にしたかった。あいつの手垢を、落としたかった。
……シャツを着てるけど、気にしてられない。
バスタブを跨ぎ、不自由な手で熱いシャワーを被った。濡れて湯を含んでいく布が、酷く重くなっていくのを感じる。
重力に負けるように中に座り込んで、ずっと頭から熱い湯を浴びていた。
やがて湯船に湯が溜まっていき、身体も温まってきた。湯の中で、シャツが浮かんで肌にまとわりつく。
その間中ずっと、手首の革ベルトを見つめていた。
コレを外さないと、どうにもならない。
それは幅3センチくらいの厚手の皮で、四角い留め金には鍵穴と、金属製の小さなリングが付いている。鍵はどうせ、しっかり施錠されているだろう。
……腕時計のベルトみたいなのだったら、歯で開けられるのに。
悔しく思いながら、それでも噛み付いてみた。留め金が手首の裏側にあるので、歯を立てても力が入らない。
「……はぁ」
暫くやっていたが、びくともしない。
───今は諦めるしかないか……のぼせそうだ。
立ち上がると、お湯に浸かったシャツが、さっきよりも何倍にも重く感じられてよろけた。
……このままじゃ、ベッドに行けないな。
洗い場に腰を落として、シャツの水分が切れるのを待った。
背中だけ床に着けてほんど寝そべり、肩で壁に寄りかかった。膝を立てて痛む後ろを庇う。
天井を見上げると、湯気の中に黄色い光がぼやけて見えた。
恵と行ったホテルを思い出す。七色に移り変わるバスタブの底に、恵はきゃっきゃと喜んでいた。
その後の、湯気の中に浮かび上がるブルーライトを、息を詰めて二人で見上げたんだ。
「…………」
逃走だった。
あれは、あの悪魔から逃げるために、防衛本能が働いたんだ。
───でも、だからって……
こんな事になるとは、思って無かった。こんな事を想像して逃げた訳じゃない。
だから、すぐ家に戻ったんだ。
俺は項垂れて、括られた両手の間に顔を埋めた。
ベッドに戻ると、ヘッドパイプに取り付けられ垂れ下がっている鎖が、目に入った。
昨日、この鎖と手首のリングを繋いだんだ。俺は背筋がぞっとして、目を背けた。
───おぞましい。
このベッドに寝なきゃいけないのが、嫌だ。
「……………」
……それでもここに寝るしかない。
布団に潜り込んで、身体を丸めた。まだびっしょり寝れているシャツが冷たくなって、身体を冷やしていく。掛け布団もシーツも、湿っていった。
───帰りたい……自分のベッドで寝たい。
また色々な思いが、思考を過ぎっていく。
それでも風呂で疲れたせいか、いつの間にか寝てしまっていた。