chapter7. cross fader -クロスフェーダー-
1. 2.
2
山崎には済まないことをしたと、思う。
何も訊かずに、俺の手当をし、看病してくれた。朝と夕と飯を作り、世話を焼いてくれた。
だけど俺は……
これだけ回復すれば、充分だ。今ならもう動ける。
──山崎には、なんて説明しよう……。
いろいろな思いが、頭を渦巻く。
そして俺は……山崎の部屋を飛び出した。昼過ぎ、まだ大学から帰って来るはずのない時間。
本当は一言、顔を見て礼を言いたかった。でも、山崎が帰ってくるのを待っていたら、恵の下校に間に合わなくなる。
もうこれ以上、時間を無駄にしたくなかった。
ペンと紙を探して、メモを残した。
“──山崎へ
ありがとうな、本当に助かったよ”
感謝の気持ちは、書ききれない。傷の手当て、看病、飯、寝床、……本当に助かった。
そして、……何も訊かないでくれて、ずっと笑顔でいてくれて───
どれか一つだけでも書こうと思ったけど、それは違う。だから、何も書けなかった。
……こんな時、山崎なら何て書くんだろうな。
口の端がふと緩んだ。お節介焼きの気のいいヤツ。くりっとした目が、平和そうな顔が、俺に笑いかける。
………あいつに、山崎に打ち明けていたら……。
俺は、変われたのだろうか……。
持っていたペンを握り締めた。
──今更もう遅い。
平和すぎる空間。
居心地が良すぎる、友達ごっこの世界……。俺は弱りすぎて、縋りたくなってしまったんだ。
言ったって分からない。打ち明けたってどうしようもない。あの現場を見なければ、俺の痛みはわからない。
わかったところで、……俺は救われない。
奥歯を噛み締めて、ペンを置いた。
───行かなけりゃ。
着てる服をそのまま借りて行くしかない。手荷物もなにもない。俺はメモをベッドに置くと、急いで飛び出そうとした。
玄関で、室内を振り向く。狭いキッチンと廊下。俺に遠慮して、山崎はここで寝ていた。
───本当に、すまない……。ごめんな山崎。
……ありがとう。
廊下に、深々と頭を下げた。
散々世話になりながら、勝手に出て行くことに、心が咎めた。
「はぁっ……」
たどり着いた植え込みに腰を降ろして、思わず溜息を付いた。
植木に寄りかかって、辺りを見回す。
小学校の東側の壁が、四角く整えられた植木の向こうにずっと続いている。正門はここからは見えなかった。
……ここなら、アイツには見つからない。……でも、恵を見つけることもできないな。
財布もカードも何もない。それがこれほど不便だとは、なってみないと気付かないものだった。
定期が無い。電車がだめなら、バスで…なんて、つい考える自分が情けなくなった。
──徒歩しかない。とにかく歩いた。場所は判っている。下校時間に間に合えばいいんだ……。
恵に会いたい。抱きしめて、キスして……無事を確認したい。
それだけを思って、小学校を目指した。
いざ近づくと、足が竦んだ。どこでヤツに見つかるか分からない。
正面は避けて、こんな植え込みに隠れた。
───どうしようか。
歩き通して、また身体は動かなくなっていた。まだ無茶だったか……と、後悔しそうになる。
でも、ベッドの上でじっとしている方が、耐えられなかったはずだ。
空を見上げると、どんよりと黒く厚い雲が垂れ込めていて、今にも雨が降ってきそうだった。
───どうする……正面の校門に、行くか?
自分に訊いてみる。
動けるのか。もし見つかったとき、走れるのか。
……逃げ切れるのか?
会いたい気持ちと、見つかるかもという恐怖が、交互に胸を締め付ける。
………メグ……
可愛い顔が、すぐに浮かんでくる。
こんなに側にいるのに。やっとここまで帰って来たのに。
………会いたいよ。恵──
身体を動かしてみた。
「………っ!」
立ち上がろうとして、激しい目眩に襲われた。
───ッ、…くそ!
目を閉じたまま、肩で息をした。深呼吸を繰り返す。
その時、前方の植木の間からいきなり、誰かが飛び出してきたようだった。
「────!」
俺の心と体は、硬直した。
……ゆっくりと目を開ける。
「………」
驚いて立ち尽くしている、霧島の姿がそこにあった。
俺も驚いて、霧島を見つめた。
「かつにい!?」
その叫び声に、デジャヴを覚える。
4月の初め……河原で暴行されて逃げたとき、あの時も、こんな風に霧島に声を掛けられた。
「……霧島」
コイツには、変なところばかり見られるな……。
舌打ちしながら見上げると、顔つきが何となく以前と違うように見えた。
──育っているのか。……数日で随分変わるんだな。
引き締まった霧島の顔を見上げて、恵を想った。
恵は……メグの成長も、俺は毎日見ていた。
日毎伸びていく手足、身長。………一週間会わないうちに、何か変わってしまっただろうか。今、どうしているんだ。
───なぜ、コイツが一人でここにいる?
「……恵は?」
絞り出すように、訊いた。声もろくに出ない。
ずっと黙っていた霧島が、身体を振るわせた。
「何してたんだ! ──こんな大事な時に!」
いきなり叫び出した。
──大事なとき?
……なんだ……何かあったのか?
「そんな心配……俺に訊くぐらいなら、天野の所に、早く戻ったらどうですか!」
「───!」
「なんでいきなり、いなくなったりしたんですか!? 天野……どれだけ……っ」
立て続けに聞こえてきた言葉は、俺自身が散々望み、そして心配していたことだった。
今更コイツに言われるまでもない!
───それができるなら、とうに帰っている!
───だいたい、それなら、もともとメグを泣かしたりなんか…!
悪魔の仕打ちが、煮えたぎる怒りとなって蘇る。
わかってることを畳みかける、霧島の言葉にも、苛立った。
理由なんか、説明できるわけがない。
何を言ったって言い訳で……何も返す言葉がない自分にまた、怒って……そして、何よりも声が出ない。
「………うるせぇ」
睨み付けて一言。それしか、言えなかった。
もっと怒鳴り返してやりたかった。
黙れ! と、口を塞ぎたかった。
でも、ハアハアと苦しい息遣いが、自分の耳に煩い。
苦しくて、大きな声すら、出ない────
俺の呻きに、血相を変えて歯噛みする霧島。そのカオは、やはり前よりかなり大人びて見えた。
それでも、悔し紛れのように何か言い出すのは、相手にしないつもりだったのに……
「……貴方はもうムリだ!」
拳を握り締めて、俺を睨み付けてくる。
───何、言ってんだ、こいつ…?
「貴方には、貴方の世界がある! もう……天野だけの兄ちゃんじゃ、なくなってるんだ!」
「面倒みきれないのに、天野から何もかも奪うのはよせよ!!」
「────ッ!」
面倒見切れない……だと?
……違う! 不本意に拘束されて、引き剥がされた。
俺はいつだって、メグだけを思ってるのに……
そうだ、恵には……俺のことは、どう話しがついているんだ?
急に心配になって、父さんの顔が思い浮かんだ。
“適当に話しを付けておくから”そんなことを言っていた。
………無責任な説明をして、恵が傷ついていなけりゃいいけど……。
俺は再度、奥歯を噛み締めた。
霧島も、一瞬泣きそうな顔をした。そして、一層俺を睨み付けて来た。
腹の底から怒りを燃やすような、叫びが響く。
「奪ってばかりでなく…必要なものもあるんだ! 俺がそれになる、貴方の代わりに天野を守る!」
何を知ったような…そう、一笑に付すこともできない、必死な声だった。
雨が降ってきた。
大粒の雨が、ボタボタと顔を、身体を濡らしていく。
霧島も俺も、そんなのは微動だにせず、睨み合った。
俺の代わりに、守る…?
そのフレーズが、頭にこだまする。
恵に、何かあったのか……何か、起こっているのか? 問い質そうとした。
この生意気なガキの胸ぐらを掴んで、いったい何が起こっているのか、聞き出したかった。
誰に向かって物を言っているんだと、以前のように言ってやりたかった。
───でも、怠い体は動かない。
霧島が、一歩近づいてきた。
「……………」
真剣な眼が、俺を真っ直ぐに見下ろす。
「天野を……天野を俺にください。俺は絶対傷付けない。裏切ったり、置いてけぼりにしたりしない!!」
「─────ッ!!」
……傷つけたり、置いてけぼりにしたり……
その言葉は、そのまま、俺の胸に突き刺さった。
理由はどうあれ、結果はそうなっているんだ。俺は恵から離れ、ひとりぼっちにさせた。いきなり、なんの説明もなく。
恵が泣き続ける姿は、容易に想像できた。
帰り着けさえすれば…直接メグに触れることさえできれば……そのことばかり必死で、できるだけ考えたくなかった、メグ側の真実。
その恵に、コイツは……霧島は、付いていてくれたんだな……。
恵の泣き顔なんて、考えただけで胸が押し潰されそうになる。
でも、たった一人で泣き続けさせないで、支えになるヤツが居てくれた。それは俺にとって、とても救いだった。
「………………」
───恵に何かが起こっている。
霧島の様子から、それは間違いないと思った。
それなのに、俺が役に立たない。
悔しいけど、それは事実だった。
───どうする…
また、自問する。
誰よりも恵を心配する、霧島……。この間もそうだった。
こんなヤツが俺にもいたら…そんなことさえ、思わせたんだ。
俺が動けない以上、誰かが恵を守らなければいけない。
今の俺は、恵に会うことすら出来ないでいる。
そうだ…こんなんじゃ、駄目だ。……アイツを何とかしないと……。
執拗に俺に構う、あの悪魔……俺の問題を、片づけないと…!
「……………………」
───俺は、心を決めた。
俺も、真っ直ぐに霧島を見上げた。
生意気な、恵の同級生──
ガキだガキだと、思っていたけれど、……こんな事になるなんて
「───今は……頼む」
……恵を……頼む……
降りしきる雨は、涙を流さずに泣く、俺の心を代弁しているかのように、頬を伝った。