chapter9. strange world -異世界-
1. 2. 3. 4.
2
「………なんですか…この二人は」
咎める口調。
流暢な日本語は、チェイスより綺麗な発音だった。
白革のブーツが近付いてきて、俺の顔の前で止まった。
「仕事場に、無関係の人間を連れ込むなんて……私情を、挟みすぎですよ」
最後の方には、冷笑を含んでいる。
「……うるせぇ」
チェイスの声が、気色ばんだ。
────なんだ………誰なんだ……?
仲間割れとも違う、この空気は………
「……えッ…」
見上げて、思わず声を上げてしまった。
燃えるような、赤………
目を瞠るような、赤髪の美人が立っていた。
ボリュームのある細かいウェーブを、襟足の位置で揃えてある。
前髪も同じ長さで、真ん中から分けた左側だけ、耳の横から掻き上げていた。
────驚いた……。
声からは想像も付かないくらい、華やかな外見。
立ち姿そのものが艶やかで、一瞬女性と勘違いしてしまった。
「……くッ…」
晒しっぱなしの下半身を隠したくて、脚を閉じて腰を捩った。それだけでも、内蔵に激痛が走る。
せめてもと、Tシャツを胸から下げて、長袖シャツの裾でも、腰を覆った。
「こんな勝手なことをして。……メイジャーには何て、説明するんです?」
銀色にも見える、薄いグレーの目。猫のように大きく、吊り上がっている。
その色は、声と同じ印象で…冷たい光を放っていた。
俺とオッサンの状態なんか、どうでも良いとさえ思っているように……
一瞥した冷たい目線は、すぐにチェイスに戻った。
「うるせぇって言ってるんだ。……オマエには、関係ない!」
チェイスが忌々しそうに、言い返す。
「ありますよ。こんなの運び入れて……計算外も良いところです」
軽く腕を組み直したり、髪をかき上げたり……仕草の一つ一つが、目を惹く。
白いブラウスがヒラヒラと翻って、ぴったりとしたパンツの腰つきが、妖しいくらいに色っぽい。
「あなたの身勝手さには、メイジャーもいい加減…うんざりですよ」
「……黙れッ」
凶暴さで威嚇するチェイスに対して、シレンと呼ばれたその人は、目線だけであしらっている。
「ふ……そんなだから、あなたはボスの器じゃないって……ボクがいつも、言っているんですよ」
「何……!」
「アハハッ…こんなこと言われたくらいで、ムキになって……!」
からかうように、声を上げて笑い出した。
「なんの騒ぎだ、シレン」
また鉄のドアが開いて、今度はスーツ姿の大男が入ってきた。
「……メイジャー」
シレンが笑いをぴたりと止めて、男に寄り添った。
その男に顎を掬われて、当然のようにキスを受けている。
オールバックの黒髪に、上唇を覆い隠す口髭、太い鼻筋。
スーツを着ていなければ、チェイス同様の野生味を感じさせそうな、豪快な面立ちをしている。
「説明しろ、チェイス」
───威圧感のある、ドスの利いた声。
シレンを右腕に抱き込みながら、一睨みしている。
「………チッ…」
顔を真っ赤にして掴みかかりそうだった敵意を、チェイスはシレンを睨んだだけで、抑え込んでいた。
「─────」
凶悪そのものだったチェイスの、この態度……。
何かの組織に入ってるって、オッサンが言っていたけど。
───コイツが、ボス…なのか……?
ここは…そのアジト……?
───さっきまで俺が受けていた恐怖は、なんだったのか…。
違和感…というのか、奇妙な憤慨が、腹の底に湧き上がった。
俺にとって、この野獣が何よりも、恐ろしい敵だったのに。そのチェイスに、こんな格上がいるってことに……。
「……………」
オッサンにも、それを感じたのを、思い出した。
“コイツさえいなければ”……そう思い続けていた、越えられない壁。
最強の敵だと思っていたのに、そいつには、もっと手に負えない強敵がいたんだ。
……自分の小ささを、痛感する。
どれだけ俺は弱いんだ……? そう思い知らされて…悔しい。
もっともっと、強くなりたいと───
………ふゥ…
そっと深呼吸をした。
薬もだいぶ抜けて、まともな思考回路が戻ってきた。
殴られた後遺症のせいか、脳が揺れるような目眩は、まだ治まらない。
……身体も痛い。
情けない格好だとは思う。……でも、下手に動けない。
俺は下着も穿けずに横たわったまま、3人の会話を聞いていた。
目線だけ動かして、部屋の様子も探った。
壁や天井も鉄板らしく、灰色の艶光りする面に、つなぎ目のラインが走っている。
角の方に、発泡スチロールの箱が、いくつも積み上げてあった。
……あれが臭っているのか……
魚の干物を放置しているみたいに、生臭い。
───どこかの港の、倉庫か……?
床に顔を着けていると、地響きのように何かが響いているのを感じる。
なんだろう……不安を煽るような音だった。
────あッ……!
ぐるりと這わしていた俺の視線が、メイジャーというボスらしき大男、その後ろに釘付けになった。
部屋の出入り口は、2人が入ってきた鉄扉一つ。
……あのドアが、閉じきっていない。
「…………………」
心臓が激しく鼓動を打ち鳴らし始めた。
───落ち着け、俺……
「チェイス……こいつらをどうするのかと、訊いている」
短く、メイジャーが促した。
シレンとは正反対の、低くて重い声。それだけで、重圧感がある。
───ドアまでの距離は、そんなにない……。
チンピラのような男達は、部屋の奥に立つチェイスの背後に取り巻いている。
オッサンは、その後ろに転がされていた。
「……あっちのは」
渋々…という感じで、チェイスがしゃべり出した。
オッサンを顎で指して
「そのうち殺す」
「……………!」
抑揚のないその一言に、ゾッとした。
思考を停止して、思わずチェイスを見上げた。
「─────」
俺を見下ろしてきた碧眼と、視線が絡んだ。……その双眸が、妖しく煌めいたように見えた。
唇を捲れ上がらせて、牙を剥き出す。
「こっちの……綺麗な人形は……」
メイジャーに向かって、ニヤリと嗤った。
「アンタに献上するために……連れてきた」
─────え?
俺が、上手く聞き取れなかったのかと、思った。
起きあがって、膝の前に両手を突いて……
フラつく身体を支えながら、もう一度チェイスを見た。
献上って───
それに、ボスに向かって、“アンタ”って………
驚いて見上げている俺を、メイジャーが見下ろしてきた。
「……こんなガキを、オレに? ……青二才もいいところじゃないか」
興味なさそうに鼻で笑うと、シレンと同じく一瞥しただけで、チェイスに向き直った。
「許可無く、こんなのを連れ込んだ事は……許し難いぞ」
「…………」
一睨みで、チェイスはまた息を詰めた。
「そう言わずに、受け取れよ。……こいつ、見た目よりイイから。一回ヤってみりゃ、わかる」
最後は下卑た嗤いで、俺をちらりと見た。
赤い舌が、薄い唇を舐め上げている。
───オッサンは殺して、俺はこの男に……
そうすれば、グラディスに関わる邪魔者は、始末できるんだ……。
その思惑を悟って、今度こそ心臓がバクバクと音を立て始めた。
『そのうち殺す』
虫けらでも潰すような……何の感慨も持たないような、あの声。このあとすぐにでも、やりかねない。
ダメだ───様子を見ている場合じゃない……
恐怖が俺を駆り立てた。瞬時にドアに目がいった。
逃げろ……この場から、逃げろ……!
───あの隙間から、逃げろッ……!!
背中を押されるように、立ち上がっていた。
俺の両眼はもう、ドアの隙間しか見えていない。
ダッと走り出した背中で、驚きの声が上がった。
「───クッ!」
足下がふらつく。ドアにしがみついて、部屋の外に飛び出した。
────どっちだ!?
外は薄暗く細い通路が、左右に伸びていた。
判断なんかつかない、とにかく明るい方へ走った。
───逃げろ、逃げろ、逃げろッ……!
───捕まったら、最後だ……逃げ切って、助けを呼ぶんだ!
下着も着けていない。
靴も履けなかった。
それでも、逃げ切る方が大事だった。
後ろからは大勢の靴音が、金属音を響かせて追いかけてくる。
ニゲロ、ニゲロッ……!
心の中でも、何かに追われているような恐怖が追いかけてくる。それに掴まれそうで、脚が竦む。
ダメだ、走れ……痛いのも、辛いのも、プライドでさえも、全部後回しなんだ!
今までの我慢や頑張りは、いつも誰かのためだった。
………でも今は違う。ただ、“チェイス”という恐怖に、突き上げられていた。
広い通路に出て、目に付く階段を駆け上っては、その先に逃げた。
────出口!!
外の光が差し込む磨りガラスが、嵌め込んである。
……日光…外だ………あのドアを出れば……
外に人がいる確証なんてない。でも、大声で叫んでやる。
「ハァッ…ハァッ…」
手すりにしがみつくようにして上りきって、重い鉄扉に体当たりした。
「誰か…誰か────!」
外に飛び出すのと同時に、俺は叫んだ。
そう、叫んだつもりだった。
「────────」
もの凄い強風。
シャツも髪も巻き上げる。俺の声も、吸い取られた。
青い空と──── 一面の海に………
「……………!?」
視界に飛び込んできたのは、上も下も青一色。
360度……見渡す限りの、大海原だった。
「…………なん……」
……目に映る光景が、信じられない。
港だとばかり、思っていた……この潮臭さは。
「──────」
外に出れば、地面があって。
走れる限り、この足で何処までも逃げていけると……思っていた。
……何度逃げ出したんだ、俺……
……どれだけ自由になりたいと、願ったか……
手首切るような大怪我してまで、逃げ出した。センサーなんて知らなくて、走った。
こんなプレート嵌められて、オッサンの籠の鳥になったって……あのマンションの外には、自由があったはずなんだ。
呆然と立ち尽くす俺の顔に、タンカーが作り出す波しぶきが当たる。
潮風が、髪の毛までベタベタにしていく。
追いかけて来た男達が、俺の様子を遠巻きに見て……笑い出した。
逃げ切れると信じて、こんな所に飛び出して。
ショックを受けてる俺を、ゲラゲラと笑っている。
俺一人、知らなかったんだ。
この足はもうとっくに、大地を離れ………着地する陸も見えない。
アメリカなんて、行きたくなかった。そんな未知の国。
……なのに……
見知らぬ船に乗せられて、こんな海のど真ん中だ。
「……は…」
俺も、笑いたかった。あんまり冗談が過ぎるだろ。
「はは……」
地図にも存在しない、閉鎖された浮遊空間。
自由も逃げ場も、二度と望めない。
“未知の国”……なんてもんじゃない。
────よっぽどタチの悪い、異世界だ………