chapter10. proprietary right -所有権-
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「うわっ、冷……ッ!」
いきなり冷たい水を全身に浴びせられて、心臓が凍り付くかと思った。
「なにする…」
見上げると、いつもの大男が空になったバケツを持って、立っていた。
長い前髪を額の黒いバンダナで後ろで纏めていて、いかにも海の男と言った、筋骨隆々の体をしている。
「生かしておくなら、人間らしく扱えってな。ボスからの命令だ」
横にしゃがむと、僕の服を脱がし始めた。
「くっせぇな。血も汗も垂れ流しも、そのまんまだからなぁ」
「…………!」
あの暴行以降、僕はこの倉庫みたいな部屋に、放置され続けた。
負傷の酷さが、自分で判る。
ただじっと動けないで、治るのを待つしかなかった。
……と言っても、時々チェイスが入ってきては、腹いせのように蹴っ飛ばしていく。
今度こそ、殺される……何度、そう思ったかわからない。
そうこうする間も、入れ替わりでこの大男が、パンの欠片や残飯を僕に運んでくれていた。
いったい、どれだけの時間が過ぎたのか。
この何もない部屋では、寒すぎる。手足も凍えて、余計感覚がなくなっていた。
……生きているのか、死んでいるのか……
意識が戻るとき、それさえ判らなくて常にぼぅとして……
でも、たまに思考が戻ってくるときは、やはり克晴を想った。
『シレンそっちのけで、ひたすらメイジャーのご寵愛だぜ』
チェイスが面白そうに嘲笑うのを、聞きたくなかった。
「い…痛い…っ」
僕を素っ裸にすると、もう一度水を掛けてデッキブラシのような物で、身体をゴシゴシと擦り始めた。
傷や打ち身など気にもせず、固まった血の跡を落としていく。
「うるせぇ。洗ってもらえるだけ、ボスに感謝しろ」
「……ボ…ボスって…」
対角線上に反対の位置…ドア付近で、チェイスが手下とたむろしている。
そっちについ目を向けた。
「アイツのはず、ねぇだろ。ボスと言ったら、メイジャーだけよ!」
苦々しく眉をしかめて、反吐を吐くように言い捨てる。その言葉に、チェイスの取り巻き達が何か反応した。
「カルヴィン、つつくのは野暮ですよ。こんな奴らを相手にしたら、自分を下げるだけです」
白いブーツが、軽やかな声と共に部屋に入ってきた。
真っ赤なウェーブを揺らしてチェイスの横で止まると、キツイ眼で睨み上げている。
「ヒャハハッ、メイジャーに抱いてもらえないからって、オレに当たるなよ!」
「フ…ゲスな台詞が、お似合いですね」
「お前も構うな、シレン」
顔色を変えたチェイスを抑えるように、威圧的な声が響いた。
この船のボス……真っ黒のオールバックに、頬から顎まで髭で覆った大男が、続けて入ってきた。
二つボタンのスーツの胸が、シャツの上からでも判るほど、筋肉で盛り上がっている。
────え……
その後ろに、幻かと思う姿があった。
「…かつはる……!」
今の自分の格好など忘れて、思わず呼びかけた。
船員に借りたような、シャツとズボン。長袖のそれは、プレートを隠してはいるけれど…
「───克晴…」
もう一度呼びかけた。
僕の克晴……久しぶりの姿が嬉しくて、心臓が打ち震えた。
「……あ!?」
僕を見ると思っていた顔が、目も合わせずにフイと横を向いた。
身体ごと、黒いスーツの背中に隠れてしまった。
「……かつ」
信じられなくて、もう一度呼ぼうとした。
「無駄だ。嫌われたもんだな」
低い冷笑が、僕の声を遮った。
メイジャーが呆れたように眉を上げて、僕と克晴を眺めている。
「お前を見て、克晴がどんな態度を取るか…興味があった」
「……………」
……そんな…ちょっと待ってくれ……
「お前はもう、あきらめろ」
ショックで声が出なくなった僕を、床まで震わせる低音で、切り捨てた。
「メイジャー、無理やりは同じだろ」
チェイスが下卑た笑いで、克晴に近寄った。腕を掴むと、舐めるように見下ろす。
「………ッ」
「どんなふうに喘いでんだ? カツハル…マサヨシの前で、もう一回やらせろよ」
────アイツ……!
全身に戦慄が走った。
でも次の瞬間、メイジャーの太い声が、鋭く響いた。
「黙れ、チェイス」
その静かな一括は、僕まで息を止めてしまう迫力があった。
薄笑いの消えたチェイスの腕から、脅えた克晴を剥がして、そのまま右腕に抱え込む。
「お前にもう、その権限はない」
図抜けて高い身長差で、チェイスさえ見下ろして。
「こいつはお前ほど、オレを嫌がってはいないぞ」
余裕を見せた笑いに、チェイスの頬が怒りで紅く染まった。
「……チッ」
舌打ちをして部屋の隅に戻った碧い眼は、克晴だけを睨み付けた。
面白くなさそうに、壁により掛かかりながら。
「……………」
……よかった……心底、ホッとした。
もう、目の前であんな残酷なことは、二度と嫌だった。
でも僕は、心臓の動悸が治まらないうちに、第二のショックを受けた。
左にシレン、右に克晴を抱き込む、メイジャー。背後にはごつい男達を数人、従えている。
その立ち姿は、まさにこの船のボスと言った風格だった。
一言で、チェイスの愚行を止めさせた……この男…40に届くだろうか。それ以上の貫禄で、僕にでも“ただ者じゃない”って事は判る。
───でも……
いつかのシレンへのように、克晴を上に向けさせ、ディープキスを始めた。
克晴はそれを当然のように、受け入れている。
そして唇が離れるとき、その舌が……
「……ん…メイジャー」
その名を呼んだ。
身体を逃がすように、離しながらも…
────克晴……!!
僕の名を呼ばせるのに、どのくらい長い時間を要しただろう。
どれだけ酷いことを、しただろう。
あの唇からやっと“マサヨシ”と言わせたとき……“手に入れた”という充足感が深まった。
なのに……
息も出来ないまま、その光景を見つめてしまった。
「……ふふ」
シレンが僕を見て、クスリと笑った。それを引き金に、部屋の空気は動き出した。
「ボス、服には何もありません」
カルヴィンと呼ばれたバンダナ男が、メイジャーに報告した。
「……まあ、そうだろうな」
克晴をシレンに預け、大男がゆっくりと僕に近付いてきた。
──────!
………まさか…。
素っ裸にされて、服を剥ぎ取られたのは……身体を洗うためだと───
真っ青になった僕の顔色を、見透かしたように。メイジャーがしゃがんで、髭面を近づけてきた。
「プレートの鍵は、どこだ?」
「─────」
たった一言。
それを発しただけなのに……暴力で身体を叩かれたような、衝撃があった。
「なんだか知らないが…お前なら、あれを外せるだろう?」
「…………ない」
掠れる声を、絞り出した。克晴が喋ったのかと思った。
だからショックが激しかった。……でもこの訊き方は、そうじゃない気がする。
動揺を隠して、僕も虚勢を張った。
「……置いてきた。ここには無い」
「カルヴィン!」
「Sir!」
鋭い号令にバンダナ男が、裸で転がっていた僕を俯せに押さえつけた。
アッ──!!
「……な…ッ!」
抵抗の前に、他の男二人が僕の口と尻にそれぞれ指を突っ込んできた。
「───うぁ…!」
歯茎と頬の間や、喉の奥までなぞって擦る。
尻の中は、奥まで掻き回された。
「無いです」
「……よし、もういい」
「………ハァッ…」
屈辱感に打ちのめされて、ただ睨み上げた。こんな大勢居る中で、全裸検査されたんだ…!
カルヴィンが、びしょ濡れになった僕の服をそのまま着せてきた。
「うわ…」
重みと冷たさで、思わず声を上げてしまった。
「……待て、新しい服をあてがってやれ」
思案気味に眺めていたメイジャーが、乾いて清潔な服一式を用意させた。
座ることは出来ずに、再び床に寝そべったけれど……暖かい服に身をくるんだ体は、さっきまでと比べたら、天と地ほどの快適さだった。
「マサヨシ…お前など、オレにはどうでもいいのだが」
また顔を寄せてきて、二人だけの会話のように低音で囁く。
「その服は、お前のためじゃない。克晴に恩を着せるためだ」
「…………」
「お前の事を、気にかけていた」
「─────!!」
集団の方へ視線を走らせると、克晴は相変わらず横を向いて立っている。
胸に熱い何かが、込み上げてきた。
「お前は、克晴に何をしてやれる?」
「…………!」
厳しいけれど余裕のある声。意識をメイジャーに戻した。
真っ黒い目と、睨み合う。
「お前は克晴の、何だ……何がしたいんだ?」
……何だって……そんなの………
「お前はあいつを守れない。それどころか、チェイスと同類だ」
「────!」
それは流石に、ショックを受けた。そんなはずがあるもんか。どこ見て言ってんだって。
「……僕は…!」
「オレなら守ってやれる。チェイスから、お前から……苦痛を取り除いてやる自信がある」
「……………」
何が言いたいんだ……。
地を這うような響き……静かに、ゆっくりと言い聞かせるような語り。
具体的な脅迫をする訳じゃないのに、何故か喉が詰まった。
「…………」
さっきの一声でチェイスを制した事が、全てを明白にしているように。
僕なんか太刀打ちできないような、格の違いを見せつけてくるようで…悔しい。
───苦痛を取り除いてやる───
その言葉…。メイジャーの妙な存在感が、ふと記憶の中のグラディスと重なった。
そうだ、この底知れない風格……どっちも劣らないほど、似ている……。
グラディスは更に直接的な圧力と暴力で、ごり押しをした。
『克晴を忘れて自分を愛せ、そうすれば悩まなくて済む』
そう命令された。
……そんな風に諦められるなら、こんなにも引っ張り回さなかった。
その気持ちは、今でも変わらないんだ。僕は克晴だけ……
それに、僕はあの時の酷い仕打ちに懲りていたから。
克晴には、優しくしたつもりだった。
性欲を押しつけて意地悪はしたけど……暴力はしなかった。
愛でくるんでいた、つもりだった。
───でも……
克晴のために、何が出来る……?
何がしたいか……
その言葉は、僕の中に波紋を投げかけた。