chapter13. Falling Angel -フォーリン・エンジェル-
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………にぃ…
「………………」
……かつにぃ…
────誰だ……俺を呼ぶのは…
「……克にぃ」
─────メグ…?
耳元で優しい囁き。
俺は思わず振り向いて、抱き締めた。
「………あ」
温かな気配。柔らかい感触───居たと思った愛しい気配が、するりと消えた。
「恵……?」
青紫一色の世界。
平均台のように、一本だけ足場が続く。俺はその上で、ぽつんと立っていた。
消えてしまった気配……まだ感触は残っているのに。
無性に哀しくなって、掻き毟られるように胸が痛くなった。
「………………」
心もとない足下。
……俺はそこから、動けなかった。空を切った腕で、自分を抱き締める。
────寒い…
「何をそんなに、悲しんでいる?」
背後から、低い声。……優しい響きで、問いかけてくる。
「……メグが……恵がいない」
俺はぽつりと、漏らした。
「温かかった体温が、無くなってしまった……」
消えてしまった空間を、ぼんやり見つめながら。取り返しの付かない後悔のような、胸の痛み……
「……寒いんだ……腕の中が……」
もう一度、この腕に……抱きたい。
背後の気配が、俺の背中を覆った。
「………これで、暖かいか?」
一瞬、全身を抱き締められた気がした。
…………暖かい。
後は何も言わない。
「…………」
なんて…安心するんだろう。
俺はその温もりにくるまれながら、もう一度恵の消えた方を見た。
もう足は動く。寒くない。
落ちそうな気がした、棒一本の足場。……ダイジョウブ、もう行ける。恵を追わなきゃ。
「……父さん、俺…行く……」
振り向きもしないで、紫の闇に言っていた。
「俺、元気出たよ」
言いながら、足が出ていた。走ってかなきゃ、間に合わない。
「………そうか…」
優しい響きが、悲しそうに呟いた。
────?
不安が胸を掠めた。
誰だ………今の…
ふと、包まれていた気配が途切れた。思わず振り向くと、大きな影が歪んで消えた。
………あっ…
「待って……行くな」
声を上げて叫んでみても、青紫の闇が吸い込んでしまう。
………行くな………行くな……
追いかけたくても、また足が動かない。自分を掻き抱いた手が、解けない。
誰だ……父さん……
………違う……
行くな、……行くな、行くな────行くなッ!
─────メイジャーッ!!
「───────!!」
叫んだ声は、頭の中だけに木霊していた。
青紫の空間は消えて、眩しい照明光が目に飛び込んできた。
全身汗びっしょりで。
抱き締めていると思った腕は、背中で縛られていた。
………夢……
……朝なのか。
隣で寝ていたチェイスは、いない。
一人、呆然とした。………優しく響く低い声が、微かに耳に残っている。
「………………」
胸の痛みだけ、夢から持ってきてしまった。
溜息を吐いて、拭えない顔をシーツに擦りつけた。
「カツハル」
ドアの開く音と共に、チェイスが入ってきた。
「─────!」
感傷は一瞬で吹き飛んだ。体が緊張し、強ばっていく。
朝……2度目の朝だ。
あの夜から……チェイスはあれ以上の暴力を振るっては、こなかった。けど……
────今度こそ…?
毎回ドアが開くたびにそう覚悟を決めて、冷たい汗を掻いた。
ヤツはメイジャーがしてきた事を、何でも真似したがった。
この寝室を“キングになった自分のモノだ”と占領し、得意げな顔で船内を闊歩して。俺を連れて歩くのさえ、真似しようとした。
……冗談じゃない。
一歩も動こうとしない俺を殴りつけて、悔し紛れのようなセリフを吐いた。
「まずはシレンだ……その後、オマエを可愛がってやるぜ! ……そんな抵抗を出来なくなるまで、たっぷりとな!」
その言葉通り、昨晩も俺の隣で寝ていたが、ニヤつく顔を寄せるだけで、何もしてはこなかった。
「起きろ、カツハル」
横たわったままじっと動かないでいる俺に、近付いて来た。
「──────」
恐怖と緊張を隠しながら、唇を引き結んで目線だけで睨み上げた。
「面白いモノを見せてやるから、来い」
ベッドに膝で乗り上がって来ると、俺の二の腕を掴んだ。
「……離せッ」
太い腕は、乱暴的で力強い。無理やり上体を起こされた。
────? ……何か、チェイスの様子が変だ。
興奮しているのか、妙に頬を上気させて眉を吊り上げている。抗う俺に、フンと鼻息を掛けると、厭らしく口の端を上げた。
「“克晴、克晴”……そう呼び続けていたくせに、アイツはシレンの方が大事だったようだな」
「……………」
薄ら笑いながら言う、その言葉が…誰を差しているかなんて、すぐに判った。
俺に執着しているようで、結局キングが愛していたのは、シレンだったと─── そう言いたいんだろう。
だからって……それが何だ。
メイジャーの心は、一言で言い切れるほど簡単じゃなかった。チェイスなんかに、解るわけがない。否定するのも馬鹿らしくて、そんなことを持ち出したコイツに、苛立った。
………何を言いに来たってんだ。
しわくちゃになったシーツの上で、二の腕を掴まれたまま。顔を上げて、視線を合わせた。
俺が反応したのを楽しむように、チェイスも碧眼を細めた。
「……相手も同じとは、限らないんだぜ?」
「───?」
───どういう……眉を寄せると、顎を急に掬われた。
「だいぶ、腫れが引いたな」
「─────」
抵抗した代償は、撲殺寸前の殴打。体中が痛み、あちこちが酷く腫れ上がった。
「綺麗な人形を、壊すところだったぜ……もう顔は殴らなねぇから、安心しな」
「……………」
……顔どころか…殴られるのが一番最悪なんかじゃない。
───そんなことで、俺が安心するかよ。
傷の痛みなんて一時だ。寝れない程酷くたって…心の痛みに比べたら。
チェイスの顔も、メイジャーに殴られた腫れが治まってきている。その間近の碧眼に、憎悪の視線を返した。
「……チッ」
舌打ちした顔が、何かに気付いたように、再度俺を凝視した。
頬に、怒りのような赤みを差していく。
「また涙か!」
「───ッ」
グイと顎を引かれ、噛みつくようなキスをしてきた。
─────!
「………やめッ…」
首を捩って唇を離した。
ゾッとする吐き気───嫌だ……こんなキス一つに、体中が怖気立つ。
まだ掴まれている顎を引いて、眼で牽制した。
「……ヒャハハ…そんな泣き顔も、今日までだ!」
口臭を浴びせながら、猛獣が目を剥いた。
「……オレしか、考えられなくしてやるぜ…」
「─────」
何だ……不穏な光が、眼光の中に見えた気がした。興奮した笑みを、ぎらぎらと顔中に浮かべる。
「来いよ、オレ様の力を見せてやる」
「…………」
不安が、嫌な予感に変わっていく。
さっきからコイツが変なのは……俺の事じゃなくて………
───心臓が、絞られていく。
逆らわずに立ち上がった腰を、チェイスはメイジャーのように引き寄せた。
「もっと、寄れよ」
後ろ手に縛られたまま……それは、俺がメイジャーに差し出された時の格好だった。
俺より頭半分大きいだけの、チェイス。その質量に、違和感を感じる。
……王になって、こんな事がしたかったのか……コイツは。
その矮小さに、嫌気が差す。
───こんな男に……
……それでも今は、言うことを聞くしかないのか。
悔しさを押さえて、歩調を合わせた。
チェイスは後ろに数人を従えて得意げに俺を引き回すと、一階層上へ移動した。オッサンが閉じこめられている仮倉庫が並ぶ、フロアだ。
───オッサン……
チラリと頭を過ぎっては、よからぬ想像をしてしまい、掻き消していた。
……皆…どうなってしまうんだ。
オッサンなんて、特にチェイスには邪魔な存在だった。ストッパーだったメイジャーが、いなくなった今……アイツを御せるのは、兄しかいない。
見覚えのある通路に差し掛かった時、
「─────ッ」
俺はギクリとして、足を止めた。
俺が初めて、逃げるために走った通路。
そしてメイジャー不在の時、チェイスに掴まって連れ込まれた部屋の、近くでもある。
その右側の通路から、輝く長髪をなびかせて……
今正に考えていた人物の姿が、現れた。
─── グラディス!!