chapter21. Same Time ~甦生~
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「……え?」
克晴は思わず、驚いた声で横を見上げていた。
シレンも何を言い出すのかと、瞬きもせずに息を詰める。無言でその髭に覆われた唇を、じっと見つめた。
「……悪夢は船と共に、オマエ達をも抱え込んで、水没した」
静かに重々しく、メイジャーは語り繋ぐ。
「凍てつく海は二人の身体を沈めようと、海底に引きずり込み、離さなかった。
肉体は溺れ…崩れ去り、大海へと還した───だが、殻を脱ぎ捨てた魂は、
死んでいない。オレが救い上げた」
「………」
「肉体を失ったオマエ達は…意識が戻った今、生まれ変わった───いや、甦生したのだ」
ズンと、胸の奥底にまで送り込むような、響きだった。
それは、二人の気持ちを見通した上での、考慮した断言であった。
克晴達が船で受けた惨烈な仕打ち、性的暴力による心への傷…それは、今後生きていく上で、抱えていかなければならない、最たる苦痛であった。
それでも“生きろ”と言わなければならなかった、克晴は、それは無責任な言葉ではないかと、ずっと心のどこかで苦悶していた。
……俺だって…
“体を汚された”その哀しみが、どれほどのものか…。克晴自身、その汚泥を拭うのに必死だった。
命が助かったと判ってもなお、その傷は瞳に浮かび、二人は言葉もなく見つめ合っていたのだった。
メイジャーは、そんな二人をじっと見ていた。
───今が、言葉にする時か───二人が揃った、今。
メイジャーには、この二人が抱える苦しみは、分かり切ったことであった。その上で、そんな哀しみなど、この男にとっては問題ではなかった。生きて自分の元へ帰ってきた、ただそれだけで良いのだから。
それだからこそ、沈む二人の横顔から、影を取り除くために。
彼らがこの先持ち続けるであろう自己嫌悪、悲嘆、業腹…それらの苦しみを、強く実感し、身の内に取り込んでしまわないうちに。
“今の、これからの二人は決して汚れてなどはいない。”─── その言明を、第三者の誰かが先回りして言い渡すことが、何よりも重要だということをメイジャーは考えていた。
生き延びた命を、要らぬ感情で哀しませないために……この男らしい言い回しの、心遣いであった。
「──────」
示唆する意図の深さに驚き、しかしまだ……
戸惑い、微動だにできないでいる、シレンと克晴。その赤髪と黒髪を、ゆっくりと大きな掌が撫でる。
「オマエ達の命が取り留められたことを、オレがどれだけ嬉しく思っているか。判らない二人では、ないな…」
己の船が暗闇の海に沈んでゆくのを眺めながら、何も手を打てないでいた胸の苦衷は、体に受けたどの傷よりも、この男に痛みをもたらしていた。
“二人だけでも助かった”─── その事が、他のどんな哀しみをも凌駕する奇跡であり、喜びなのだということを、伝えている。
「肉体の甦生、再会、今生きているという事実……それだけだ。その事実だけを喜び、胸に留めて…新しく、生きろ」
後は言葉など無用とばかりに押し黙り、愛しげに二人の髪を撫で続ける。
「………メイジャー…」
その手の平に、シレンは涙を零しながら、頬を擦り寄せた。
克晴は、視線をベッドのヘリに落としながらもその温もりを感じ、そして動けないでいた。
響きつづけた低音が、耳に残響をのこすように、体中にも痺れを残す。
浸透していったメイジャーのサジェスチョンは、克晴の心を酷く揺すぶっていた。
───生まれ変わった……新しく、生きる……?
その言葉の持つ真の意味への、喜びと不安。
急に襲って来たせめぎ合いに、どう反応していいのか、葛藤しつづけてきた克晴は、瞬時に判断できない。
──恵に逢うことが、できるかもしれない。でも逢う資格が、自分には、もう、無い……
――それでも帰りたいと願うが…。しかし一言、メイジャーに“NO”と、言われてしまったら。手放してくれなかったら……
この二つの問題が、病室での克晴の心に、常に暗い影を落としていた。
雅義、チェイス、メイジャー ……次々と身体の所有権を男達が握り、支配し、その手によって、自分は内側から、黒く染められてしまった。
それは、消し去ることの出来ない事実であり、拭い難い嫌悪だった。
だがその苦痛が今、キングがもたらした“甦生”という言葉によって、払拭されようとしている。
“汚れた身体は、浄化された”
そう公言されたのだと、克晴は感じた。いや、そう思いたかった。
───俺は一回死んで……諦めなかった想いだけは、辿り着いた。
……そこから無垢の肉体が、再生したんだって……
そう考えることが、許されるのだとしたら────?
「──────」
さっきとは違う、チリッとした胸の痛みが走る。
そして体中に、熱い何かが突き上げてくる。
─── そうであるのなら、俺は……
切り出せずに燻っていた、願い。それが今、切実に心の底から、噴き出してきた。
「……メイジャー…」
思わず髭面を見上げ、懇願するように呼びかける。緊張で、目と眉は吊り上がっていた。
───帰りたい…
……ここじゃ、生きられない。
何度も言おうとした言葉が、喉元まで出かかった。
しかし呼びかけに視線だけ寄越したその眼…、圧倒されるようなズシリとした貫禄を放つキングの眼は、克晴の言葉を押さえつける迫力を持つ。
「……ッ」
『新しく、生きろ』…さっきの言葉を思い出し、また不安になる。
生まれ変わった気持ちで、オレの側に居ろ……そう言っているのだとしたら。
手放す気など、もうとう無いのだとしたら…。
「──────」
キングを説き伏せられる、上手い言葉が、見つからない。
両の拳を握り込んで、克晴はメイジャーを見上げたまま、奥歯を噛み締めた。
「───克晴」
撫でていた手で頭を引き寄せ、メイジャーは克晴の顔を、厚い胸板に押しつけるように抱え込んだ。
「あッ…離せ…! メイ…ッ」
キスも抱擁も、もう嫌だった。───せっかく、浄化されたのなら……!
焦って抵抗しようと身じろいだ肩を、メイジャーは力強い腕で押さえ込む。
「何もしない、静かにしろ」
「………!」
宥めるような落ち着いた低音に、じゃあなんだと、腕の中から顔だけ起こして睨み見上げると、今度は視線だけじゃない、濃くなった髭面に影を落とし、真正面から自分を見下ろす顔があった。
「────」
揺るぎのない、力強い眼差し。
近い距離で見つめ合う、いつにない真剣な眼光に、克晴はどきりとして抵抗を収めた。緊張で吊り上げた眉はそのまま、自分も真っ向から、睨み上げる。
口髭を蓄えた唇がふと端を緩め、そしてゆっくりと、動き始めた。
「克晴、……お前は賢い、そして強いと評したが……見込み以上だったな。
───お前を愛したことを、誇りに思う」
「………」
「……シレンを救い出してくれたこと、感謝している」
「──────」
何も言えないまま、克晴は見上げ続ける。
メイジャーも、それきり唇を結ぶと黙り込み、真っ直ぐに見つめてくる黒い眼を、愛しげに己の瞳に映した。
頭の形を確かめるように、伸びた髪に指を差し込んでは後ろ頭を、撫で降ろす。
そして眉間にシワを刻み、太い眉をわずかに顰め、しかし、口の両端は少しあがり、なんともいえない微笑みを作った。
「克晴、……お前を自由にする」
──────え…?
と、頭が働くには、少しの時間が必要だった。
言い出せないでいた、願い…それを先周りしたような言動。
そしてその内容……
あっけに取られ、理解が追いつかない。
ぽかんと見上げる顔に、メイジャーは更に相好を崩し、力強い笑みを作って見せる。
「お前には一つ、借りが出来た。その借りを、返さなければな」
「……………」
「お前が帰りたがっているのは、解っていた。シレンが無事目覚めたら…礼と共に、伝えるつもりでいた」
「……………」
それは、克晴の言いあぐねる懇願の意を汲み、代わりに自らが切り出そうという、キングからの配意でもあった。
短い期間であったが、この突然の貢ぎ物を知るのには、充分だった。
決して懐かない頑なな克晴を、メイジャーは心から愛しいと思い、生きていてくれたことに感謝した。
再び手の中に戻ってきた体を、手放したくはなかった。
しかし、極寒の海を、シレンを牽いて泳いできた克晴───強く賢いと認めていながらも、その芯の強さには、メイジャーは改めて驚いていた。
貫いてきた気持ちを、尊重してやらねばなるまい……そう考えていたのだ。
「……………」
呆けている顔を、幾分面白そうに頬を歪めて、覗き込んでくるキング。
克晴は、意識が戻ってから一度も…キス一つでさえ、メイジャーから性的行為を要求されないことを、ほっとしながらも、不思議に感じていた。
……この男が……どうして。でも、今はなくても…いずれは……
その不安もあったし、要らぬ藪蛇をつつく必要も無いので、黙ってはいたが、
───ずっと、そのつもりで……?
今、この言葉を聞き、総てが腑に落ちた気がした。
手放すのなら、汚さないでいてやろうと。
妙な甘やかしも、病室で見つめ続ける視線も。“これが最後”という、メイジャーなりの愛のかけ方だったのかと。
じわりと染み込んでくる、一連の扱いに込められた想いと、言葉。
───自由?
……俺が?
「船の上で苦しんでいた克晴は、もういない。……あらゆる困難を乗り越えて、お前は生まれ変わった。オレが自由だと言った今、心と身体はお前自身のモノだ」
「望む場所へ、飛んで行け」
「……………………」
ベッドの上では、シレンも驚いたように目を瞠って、メイジャーの言葉を聞いていた。
そして、そっと視線を克晴に移す。
なんのリアクションも示さない克晴を、じっと見つめる。
その視線からも、克晴は、自分だけがこれを聞いているのではないということは、わかることができた。
………俺…自身の…
瞬きを繰り返しながら、心臓が早鐘のように、ドクドクと打ち出すのを感じていく。
───どんなに帰りたいと、願っただろう。
雅義のマンションで…小学校の塀の裏で…プレートによる、心までの拘束……最後は遠い異国の果て……どんなに焦がれても、願っても、叶うはずなどなかった。
「─────」
体が熱をもっていく。拳が震え出す。
……こんなの、うそだ……打ち消しながらも、勝手に息が荒くなっていく。
───帰れる……あの家へ? メグのもとへ…?
白と青の世界が、脳裏に鮮やかな煌めきを見せた。
他人の部屋になってしまったようだった、勉強机…匂い、それが自分の手に還るのか。
「……ッ」
そう感じた瞬間、胸が張り裂けるように、痛み出した。
それは病室で目が覚めたときの、“生きていた”そう感じた感動とは、別の衝動だった。
恵と会える可能性がある…どころじゃない。もっともっと、生々しい現実が、克晴の手の中に落ちてきていた。
ドクッ、ドクッ、ドクッ……耳のすぐ横で心音が叫ぶ。
もう鼓動は止められない。苦しくなるばかりで、喘ぐように上を見て、息継ぎをしていた。
「……メイジャー …本当、なのか…?」
掠れる声を絞り出して、聞き返した。
このメイジャーが、冗談でこんなことをいう人間ではない。ましてや、嘘を付くはずなどもない……。
そんなことは克晴にも充分承知の上で、敢えて訊いてしまっていた。
言葉とは裏腹に、ジンとした感動が、胸の底から沸き上がる。血流に乗せて、喜びに変えてゆく。
「手放すと言っても、自由にはするが、……お前はオレのファミリーだ。それは、覚えておけ」
あたたかな光を零して、メイジャーが微笑む。
「………」
息を詰める克晴の顔を、両手で包んで、太い親指で唇や頬を撫でる。
「何処にいても、お前を愛している…それも変わらない。……オレが愛しくなったら、この腕に帰って来い。いつでも抱いてやる」
こんな局面でも、不敵な笑みを作ってみせる。
克晴の喜びも戸惑いも、反発心さえも手の平の上だった。それは狙い通り、眼光に血色を甦らせ、いつもの克晴を取り戻させていた。
「───ッ!」
屈辱に眉を吊り上げ、頬を赤く染めて何か言い返そうとしたとき、
「克晴…」
下から呼びかけてくる、優しいソプラノ。
ベッドへ視線を移すと、白い顔が自分を見ている。
「……君は…戻るんだね……ずっと言い続けていた、大切なヒトのところへ」
感無量とばかりの、震えて絞り出した声。感嘆と、祝福を込めた、呟きだった。
目を細めて微笑む、白い顔。
傷ついた克晴を介抱し、“ただ一人、このヒトでないと”…と、その愛を理解し、愛される喜びを語った、赤毛の歌姫。
目を見張るような気品と気高さが、やつれてはいるが、凛とした佇まいと共に、甦っていた。
その贈言は、克晴の耳に、決定的な響きとなった。
「───ああ、……戻る」
一瞬沸いた怒りなど消え去り、眩しそうにシレンを見つめて。そして反復するように口の中で繰り返して、その言葉を身体全体に染み込ませていく。
「俺は…帰る……帰るんだ」
まだ太い腕に抱きしめられながらも、克晴の心は、ようやく解放されようとしていた。
恵……馳せる想いが、哀しみの枷を蹴散らして浮遊し出す。
軽くなった手足で、空へ。
どこまでも広い空を、自分の意志で飛んで行くんだ。
───俺は本当に……メグの元へと、帰る───
「……ッ」
ぶるっと震えた肩に、メイジャーが眉を上げた。
「泣き虫になったモノだな」
シレンも驚いた顔を、隠さない。
「………」
うるさい、と言いたくても克晴自身、涙腺が弱くなったことを自覚している。
心の解放──こんな時は泣いていいんだと、胸の内から、何かが訴えてきていた。
喉や頬が熱くなり、ひっきりなしに息が詰まる。
嬉しい…嬉しい…そう叫び続ける心臓に、体中の細胞が応えるように痺れていく。頭も心も、真っ白になっていく。
「……ふ…」
「どうせなら、嗚咽も噛み殺すな…声を出して泣け」
温かく肩を抱く腕の中で、克晴は歯を食いしばりながら、止めどなく頬を伝う熱い涙を、流し続けた。
ビニールの覆いから出ると、腕組みをしているグラディスが、涼しい顔をして銀の視線をこちら向けている。
どこかに行っていたのか、同時に室内に戻ってきたカスターに、一瞥だけ送っていた。
その冷たく冴える物腰、人間味をまったく感じさせない顔色は、健在だった。
シレンとメイジャーのやっと助かった命の再会や、自分の感動や涙の意味など、この男には何も感じないのだということは、克晴にもすぐに判るようになっていた。
「……………」
───でも…コイツにだって……
腕に抱き続けていた、雅義の顔を思い出す。……生きているのか? 誰もその後を語ることはなく、克晴自身も、自ら聞く気にはなれないでいた。
泣きはらした目で、眉を顰めて睨み上げたところ、克晴がそれ以上噛み付く前に、横のメイジャーが、ニヤリと片頬だけ歪ませた。
「騒がしいことだ…とでも、言いたげだな、グラディス」
「……言うまでもない」
皮肉な冷笑を返すかと思いきや、彫刻のような顔は僅かにも、表情を崩さなかった。それだけ言い捨てると、サラリと銀髪をなびかせて、病室を出ていった。
後を追うカスターは、いつもの凛とした空気をすこし陰らせて、プルクスに目で何かの合図を送っていた。
メイジャーはそれらにはもう目もくれずに、また克晴に乗れと背中を向けてきた。
「えッ…帰りはもう、いいだろ……歩いて戻る!」
慌てた克晴に、クスクスと後ろから笑い声。
「……メイジャーがそんなことを、するなんて……克晴…背負われて来たんだ?」
嬉しそうに、シレンが言う。そして悪戯っぽく、厳しい声を出した。
「キングの命令は、絶対ですよ」
負ぶわれているところを、自分にも見せてと、暗に言っている。
「…………」
実際、立ち続けて体力が消耗しているのは、確かだった。
しかし、プルクスの車椅子に乗って押して貰うのも、嫌だった。そんな事をしてもらう謂われの方が無いと、感じていたからだ。
しょうがなく、渋々とメイジャーに背負われて、首まで真っ赤になった。
そんな克晴を見て、シレンは今までにない幸せそうな微笑みで、小さく笑い続けた。
そして、
「…ありがとう…」
そう呟くのに、克晴はドキリとしていた。