chapter21. Same Time -新星-
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9
「神父さん、“セレネ君”って、なんのことかわかりますか?」
克晴は気になっていたことを、すっかり暗くなった頃に帰ってきた神父に、尋ねていた。
「…セレ…何のことでしょうね?」
神父は口髭を引っ張りながら、丸い目をもっと丸くする。
「……いえ、ご存じないならいいのですが」
その日告白が終わった後、克晴は変に喉が乾き、飲み物を取りに台所の奥へ入っていた。
冷たいお茶で喉を潤し、ついでに顔も水洗いして気持ちをさっぱりさせ、部屋へ戻ろうとしたその時。
入り口から中を覗いてた女の子と、目が合った。
『ぎゃーーーッ! やっぱり、天使様だ!!』
いきなり騒ぎだされて、克晴は腰を抜かしそうなほど、面食らってしまった。
顔を真っ赤にして飛び跳ねるその子は、続けてドアの影からわめき散らす。
『どどど…どうしようッ!! ……今日は、セ…セレネ君にも会えたのに…… く、く、…黒天使様まで、見るなんてぇっ!!』
その目は潤み、涙さえ浮かべている。
訳が分からず体を引いた克晴の動きに、女の子もビクッと体を竦ませて、キャーッと悲鳴を上げながら、逃げるように下に降りて行ってしまった。
あっけにとられていると、
『セレネ君、長い髪の黒天使様だよ!』
下からそんな事を叫ぶ声が聞こえてくる。誰かに自分のことを教えているようだと気づき、克晴は急いで4階の自室へ戻っていたのだった。
長い間の警戒心が身に染み付き、未だに、探りを入れる人物が来たのではと用心することがある。
しかし今回はまあ違うだろうと、克晴は思い出すたび苦笑いを零していた。
“黒天使様”
つくづく妙な名を付けられたものだと、考える。
夜着に着替えて照明を消すと、部屋は机の上のシェードランプが灯す、鈍い黄土色に染まる。
「……………」
その横に置いてある聖書の表を、そっと指先で撫でた。
───俺は、生まれ変わったって、……天使にも神の子にも、なれはしない。
……こんな俺が…神父なんて、していいはずがない。
それだけは克晴の中で、どれだけ“お前は許されたのだ”と言われようと、崩せる壁ではなかった。
───でも、これからどうしていけば……?
父親には、何と言って帰ればいいのか、説明を思いつけないでいた。
───俺は、帰っていいのか…俺の居場所はあるのかな…。父さんは、俺を受け入れるのか……。
マンションに監禁されて以来、家には一切連絡を入れていないことに、不安ばかりがつのる。
雅義とのことは、どこまで知っているのだろう? 事件はどうなったのか…… 霧の中で、影を探るような気持ちだった。
そして、進路も───
どこかに就職するなどという、今までだったら当然だった道が、ひどく難しいと感じていた。
大学に入り直すか、中途採用で就職先を探すか。どちらにしても、目の前に迫ってきたもう一つの“社会復帰”という現実に、戸惑う。
克晴はランプを消して布団に潜り込むと、変に疲れた体を横たえた。
柔らかい枕の両端に、長い黒髪が流れ落ちる。
「……前は…」
手の甲を額に当てて、目を細めた。遠い霞を見定めるように、暗闇の空を見つめる。堪らずに、声を絞り出していた。
「家や学校…実生活そのものが、空虚だった。…俺にとって、何もかも…見せかけの平和だったんだ……」
しかし今の克晴に、その空虚感はない。なのに思い浮かべる未来は、今までよりももっと作り事のように思えてならなかった。
自分も父親のようにスーツを着て、そして何もなかった顔をして会社に通うのだ。
それは、自分を隠し、人を欺き、他人との距離をとって…友人一人作ろうとしなかった交友関係が、そのまま続くということだった。
でも…
と、ベッドに身を沈めながら思い返すのは、2年前の記憶。
───俺は、子供だった自分から…抜け出すことができた。立ち向かっただけじゃない……いろんな事を、知れたからだ。
この教会から逃げる時に、神父に問うた“愛とはなんですか”。
それを今は、判る気がしていた。
脳裏に次々と、顔が浮かぶ。
メイジャー、シレン…グラディス……そして、雅義……チェイス。
じっくり思い出しながら、胸の中に息づいた、かつては無かったものを感じてみる。
“色々な形がありますよ”と、答えた神父。
─── そのとおりだったよ、神父さん……
俺は、いろんな形を知って、そして…それぞれを尊いと、感じた。
……それぞれの立場で、みんな真剣で……そして、他人が取って代われるものじゃ、決してなかった。
俺だって、そうだ。
メグへの愛は、俺にしか判らない。……でも、それだけじゃないってことも、俺は知った───
克晴はまどろみの中、溜息をついて目を瞑った。
翌週の日曜日、恵には待ちに待った日で、緊張しながら小屋に入った。
いつも通りに始まる、開始の言葉。
それを一緒に唱えたあと、恵は膝の上で握り拳を震わせて、用意してきた質問を口にした。
「神父さん……僕、待っている人がいるんです」
今まで思うに任せて喋ってきて、心の整理を付けることができていた。しかしそれは全部、自分自身のことで。
ずっと思い悩んでいて言葉にはしなかった、最後の疑問。“相談室からの卒業”が来てしまう前に……もう会えなくなってしまうかもしれないその前に、思い切って聞いてみる決心を、付けてきていた。
「ずっと待っているのに…会いに来てくれないんです……どうしてなんでしょうか」
それは恵にとって、純粋な心からの疑問だった。
「最初は、嫌われたのかと思いました…でも違うみたいで……」
「………」
「だからと言って、待ち続けていいのか…」
克晴は、即座に自分と恵を思い浮かべていた。
……メグは、俺の不在をどう思っているんだろうな…。
「……君は…君自身は、もう……待つのは、いやなの?」
「えっ? ……そんなことない、そうじゃないんです!」
慌てた声が、必死に訂正してくる。
「僕はずっと待つって、決めてるんです。……ただ、相手にとって、その人にとって── それは迷惑に、なるんじゃないかなって…それでもいいのかなって……」
“君の愛はエゴだ”…そう桜庭に言われた、最後のしこり。
恵の中には、自分が思い続けることの幸せと、思い続けることによる“迷惑”が、平行線で存在していた。
「僕は決めてても…わからないから。なんで帰ってこないか、わからないから……時々不安になりそうで…また迷っちゃいそうで、怖いんです。……嫌われるのだけは、いや……困らせるのも…」
最後の方の呟きは、壁越しにほとんど聞き取れなかった。
しかし、その声、語尾は、克晴の胸を今までにないほど、ハッとさせていた。
───似ている……。
いつも思っていた。
この子のこうした呟きは、何故にもこんなに胸をえぐるのだろうと。
礼儀正しく、しっかりとした言葉を選んで話す。その中に、時々見え隠れしていたドキリとする雰囲気があった。しかし記憶の中の幼い子とは、かけ離れていて、まさかと本気で結び合わせることは、しなかった。
おかず一つ自分で取れないように、育ててしまっていた。学校の送り迎えも、お風呂もお出かけも…何もかも、自分とでなければできなかった。
だから、いくら同じ沿線に居ても、こんな所に一人で来れるはずがないと。
……歳が近くて、状況も似ている…だから、つい重ねてしまうのか。
……冷静に対処しなければ…俺は今、神父として相談を受けているんだ。
そう自分に言い聞かせて、克晴は今聞いたことを、頭の中で整理してみる。
そしてやはりこの子は、大きな苦しみを抱えていたのかと…自分が居る間に、解決出来るような問題ではないと悟り、心が重くなった。
───ここにあるのも、一つの愛だ…。
“待ってる”が、どういう意味なのか。伝わってくる感覚のままに、受け取っていた。そして待たせている相手の気持ちなら、克晴には痛いほどよく判る。
……この心細く嘆く愛も、救いたい。
せめて、安心してくれるなら。俺の経験が役に立つのなら……
冷静にと自分に言い聞かせながら、悲しませ続けたくない、泣かせたくない、という強い気持ちに、突き動かされていた。
「……例えば、友人の話ですが」
どう話して良いか、咄嗟に話し出した声は、自分でも驚くほど静かで落ち着いていた。
じっと聞き耳を立てるような様子が、壁越しに伝わってくる。
「好きな子と離れて…その間にいろいろあったために、帰れなくなってしまった人がいます」
「………いろいろ…?」
「……いろいろです。…その出来事を思うと、相手に申し訳なくなるような…そういう場合は、帰り難いですね」
自戒を他人のこととして、話していた。
内容は違っても、何かの被害者、加害者になってしまい、合わせる顔が無くなり、帰れなくなってしまう。そんな人は他にも居るんじゃないかと、思ったのだ。
「………僕が、気にしなくても?」
「───え?」
「そんなの…僕にもある……それでも、会いたいんです」
格子窓の向こうの気配に、克晴は息をのんだ。今までと違う気迫と哀しみが、ひしと伝わってくる。
そして、その訴え方に、また胸が剔られる。
「僕も、会うのが怖い…変わっちゃった僕だから……でも、会いたい……会いたいんです」
「──────」
痺れるように届いてくる、泣きそうな声…話し方。
どれだけ、耳のそばで語り語られたか、あの幼い声。
「…帰りたくても、帰れない…それでもその人は、好きな人を想い続けています」
「………」
「一人きりでも、独りじゃない─── その子の存在を…愛を感じています……。だから、君も……その人が愛してくれたこと、それを大事に思うなら。……思う限り──自分の愛も、大事にしてあげて…」
不覚にも言葉が途切れて、克晴は唇を噛んだ。
突如心に落ちてきた隣の少年の存在に、今、雷に打たれた様に頭が痺れていた。
なぜこんなに、引っかかるのか。
愛しいと思う気持ちが、これほど湧くのは、どうしてだろう。
ずっと不思議に、思っていた。
誰一人、自分の心を動かす者など、いなかったのに。
「── その友人は…… 一緒にいるときには気づけなかった、愛しい人への愛を、離れてから感じたと言っていました」
そう、俺は…メグを愛しながら、いつも一人だった。
二人でいられれば幸せだと、メグを愛し、存在に縋った。……でも、本当の心は押し隠して、格好ばかり付けていた。
……だから、空虚だったんだ。俺の世界は……メグと一緒にいても、バラバラだったなんて。
気づかされた寂しい心…でも、今は幸せだと伝えたかった。
だから、お前も─── そんな気持ちで、隣の子に語りかける。
その人を好きでいる限り、愛された想いは消えないから…それがお前を支えることになる。だから泣かないで、信じていて……
この子は誰だ? なんでこんなにも似ている?
……錯覚だけじゃないかも…そう思っていいのだろうか。
心が反発する。
口先では神父を演じながら、感覚で恵に語りかける。
理性が打ち消すものを、感情が消すなと叫んでくる。
克晴の両手はいつの間にか汗に濡れ、聖書を何度も掴み直していた。