chapter11. beautiful world- 逃走の彼方 -
1. 2. 3.  
 
1.
 
 早く春休みが来るといい。
 メグの終業式は、俺の卒業式の数日後だった。
 恵と二人きりの旅行。…すっごい楽しみにしていた。俺はずっと待っていたのに、ヤツは俺を待たせてはくれなかった。
 
 あいつは卒業式当日、俺を拉致して車の中で襲いやがった。6年ぶりの恐怖。
 まさか…て思ってた。いくらなんでもって…6年だぞ…。
 それに俺は体も大きくなっていて、いっぱしに成長したつもりだった。来月から大学生だ。りっぱな大人だ…それなのに、何も敵わなかった。アイツにされるがまま。
 
 俺はベッドの中で、自分の体を抱きしめた。この間された仕打ちがまだ、痛みとして残っている。手首の痣も消えていない。
「克にぃ、どうしたの?」
「ん? なんでもないよ、ごめんなボーッとしてて」
 いけない。以前にも増して考え込んでしまって、恵が異様に心配してくる。俺は気を引き締めた。平和ごっこを、続けなければ。
「ねえ、克にぃ、僕じゃだめ?」
「ん?」
「僕じゃ、ヤクにたたない?」
「………」
 恵は布団から顔だけ出して、俺を見上げてきた。
 布団の中では、小さい手が俺のパジャマにしがみついている。
「役にって……」
「僕、克にぃのこと、もっと知りたい」
「……メグ」
 訳もわからず拘束され、俺の事を怒っているかと、心配していた。霧島に言われるまでもなく、不条理で可哀相なのは分かっていたし、あきらかに恵は元気が無くなっていたから。
「僕ね、もっとオトナになって、克にぃに近づきたいの。克にぃがなんでそんな顔してるか、知りたいの」
「………!」
「……僕には、知らなくていいこと? とうさんの会社の話みたいに、克にぃのオトナのジジョウなの?」
 悲しそうに俺を見上げてくる。
 ──大人の事情?
 俺は笑ってしまった。恵がそんなことを言うから。そして、子供だった俺がそれを抱えていたことに。
「また、笑う~。ごまかさないで、克にぃ!」
 ほっぺを膨らませて、訴えてきた。
「…うん、ごまかさない。ごめんな、寂しい思いさせて」
 恵の頭を抱え込んだ。俺の胸に顔を押しつけられて、恵はじっとしている。俺の言葉を待っているのか。
「……その時がきたら、メグにも伝える。ずっとそう思ってた」
 こくんと、腕の中で頭が頷く。
「もう近いから、もう少し待っていて。俺だけ先に行ったりしない。兄ちゃんも行きたくはないんだよ。メグを待っていたい」
 恵は腕の中から顔を上げて、じっと俺を見つめる。
「これは、約束の証」
 恵の顎を支えて、唇にキスを落とす。
「…ん」
 恵は嬉しそうに瞬きをした。
「もっかい、克にぃ、もっかい!」
 キスをせがんでくる。
 俺は何度も、ちゅっちゅと恵の唇にキスをした。可愛い恵。こんなキスで無邪気に喜んでいる。
「ねえ、でぃーぷきすってなに?」
 ぶっ! 俺はキスの途中でそんなことを言い出す恵に噴き出してしまった。
「はぁ? メグ…、なんでそんな言葉」
「クラスの子が、本物のキスってのはそっちだって言ってたから」
「…………」
「キスに、本物とかニセ物とか、あるの?」
 当然と言えば、当然だけれど。……俺はクラスメイトを恨んだ。
「本物っていうか、もっと情熱的っていうか、真剣なキス…かなあ」
 どう答えたもんかと、言葉を探ってみる。俺だって、正しい答えなんか知らないし。
「真剣なキス……?」
「うん、好きで好きで、たまらない人にするの」
「……僕は?」
「えっ」
「僕、克にぃ、大好き。好きで好きでたまらないよ」
 
 ───恵…
 
 俺だってそうだ。でも我慢してるのに。
 そうやって、俺を刺激するから、俺は見誤ってしまう。大人の振りをする恵を。そして、後で後悔するんだ。……でも。
「──しても、いい?」
「え?」
「メグに、おとなの真剣なキス、したい」
「……うん!」
 恵の目が輝いた。嬉しそうに笑う。
「…いやだったら、言ってな」
 そう言って、恵の顎を上に向かせた。軽く唇を合わせる。柔らかいそれが、少し震えていた。
 そっと、舌をその唇に触れてみる。びくっと、反応した。かまわず、その唇を舌でなぞる。そして口の中に進入していった。歯列をなぞって、隙間にさらに入っていく。
「ん」
 恵は声を出して驚いたが、嫌がってはいなかった。小さな舌を探し出して、絡みつく。小さな柔らかいそれは、逆らうことなく吸い上げられる。
「んん…」
 吸っては離し、また追いかけて絡み付く。
 ───恵…。
 温かい、小さな小さな舌。俺は目眩のような恍惚感に襲われた。
 ……やっとここまで、辿り着けた。
 お互いの唾液が入り交じり、恵の顎に伝った。止まらない俺の想いが、執拗に恵を吸い上げてしまった。腕の中の恵は、体中熱くなっている。
「……はぁっ…」
 やっと離された唇を薄く開けたままで、恵は俺を見た。目は潤み、頬が上気してピンクに染まっている。唇は強く吸い上げたせいで、深紅になっていた。
「…メグ、綺麗だなあ」
 頬に手を添えて、撫でる。
「メグ、愛してる」
 何度言いたかったか、この言葉。もう一度、軽いキスを落とす。恵に伝わるのかは、わからない。でも、愛してる。
「愛してる。…メグ」
「……うん」
 恵は、ただ一回、頷いた。与えられた濃厚なキスを味わうように、唇を舌先で舐めて。
 
 
 翌日の日曜日、早朝、恵がまだ寝ているところを抜け出して、俺は階下で旅行計画を練っていた。そこへ、アイツがやってきた。
 
 平和なリビング。
 冬の朝日が差し込む明るい部屋で、母さんが珈琲を淹れている。ソファーでは父さんが新聞を読んでいる。俺は絨毯の上で地図を広げながら、父さんに旅行の許可をもらっていた。
 
「……何しに来た」
 ドアを開けた俺は、硬直した。顔を見るのも嫌だったのに。
「先輩に言われて。恵君の終業式の後、みんなでどっか行こうってさ、計画立てに来た」
 悪びれもなく、そう言ってにっこり笑う。俺は蒼白のまま、動くこともできない。
「僕も、キミと、もっとどこかに行きたいし」
 すれ違いざま耳元で囁かれた。目が妖しく光っていた。
「────!」
 勝手に上がり込む、その背中を振り向いた。
 ──まだ俺に関わるのか……?
 終業式の後、今度は何をされるか分からない……血の気が引いていく。ズキンと手首の傷が傷んだ。
 そのとたん、恐怖が俺を突き動かした。急いで走ってリビングに行く。
「父さん、俺、今日恵と行ってくる!」
 それだけ叫ぶと2階に上がり、やっと起きた恵を着替えさせた。コートを羽織らせ、マフラーを首に引っかける。事態が飲み込めない恵は、されるがまま、ぼんやりしていた。
「メグ、今日行くよ、旅行。おいで!」
 手をひっぱって、階下に連れて行く。自分もコートだけ引っかけた。廊下に不可解な顔を突き出した父親が、俺を呼び止める。
「どうした? 今日ってなんだ?」
 俺はそれより、その後ろで顔を引きつらせているオッサンが恐かった。
「────!」
 説明している暇はない。車のキーを下駄箱横のキーホルダーから掴み取ると、一目散に逃げた。ドアも閉めないで、恵の腕を引っ張る。
「克にぃ!?」
 恵も動転して、抗う。
「いいから、来い! 車に乗って!」
 助手席に押し込めると、車を発進させた。
 
 ────逃げろ! 逃げろ! アイツから逃げろ!
 
 それだけが俺の心を突き動かし、行動させた。
 持って出たのは、財布一つ。着替えも地図もありはしない。街を出て、国道を下り、ずっとずっと走り続ける。どこまで行けば逃げた事になるのか、そんなことは判らない。気の済むまで走り続けた。 
 
 
 
 どのくらい走っただろう、普段遠くに見えていた山が、かなり近くになっていた。国道から細い路に外れると、やっと路肩に車を止めた。
「……はぁ」
 心の底から深呼吸をした。ハンドルに腕を掛けて顔を突っ伏す。
「…克にぃ?」
 ずっと黙って助手席に座っていた恵が、遠慮がちに声を掛けてきた。目の前で飛ぶように過ぎていく景色を、どう思って眺めていたのだろう。俺はそっと手を伸ばして、その頭を撫でた。
「……ごめんな、びっくりしただろう」
「…うん、した」
 くすり、と笑う。まん丸い目が、悪戯っぽく光る。
「克にぃと、旅行。終業式前になったんだなあって」
「……終業式、サボったりはしないぞ」
 俺も笑って、おでこをくっつけた。アイツにこれ以上何かされる前に、恵と一緒に出掛けたかったんだ。このままずっと逃げるってわけじゃない…だから、すぐ帰るつもりではいた。
 


NEXT/back/1部/2部/3部/4部/Novel