chapter1. break out- 闇の幕開け -
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「俺、恵を迎えに行くから、歩いて行きます」
 もう車には乗りたくはない。寸でのところで抗った。父さんはここから電車だと言う。
「何、言ってんの。もう今日は予定があるじゃんか」
「え?」
「克晴、初っぱなからそんなで、どうするんだ」
 父さんが呆れたように笑う。
「早く乗りなさい」
「え、……嫌だ」
 その言葉は掻き消され、俺は助手席に押し込まれた。
 ガチャリ、あの音が響く。
「じゃあ雅義、済まないな。いろいろな事を世話になるが、ヨロシク頼むぞ」
「ハイ、先輩! 任せといてください!」
 父さんは忙しそうに、大通りに向かって早足で掛けて行った。
「………?」
 俺はまだ、状況がわからない。
「なに? ……どういうことだ?」
 とにかく、待たせている恵のことが気になった。恵も、何かがおかしいんだ。
「降ろせよ」
 俺は声を絞り出した。忌々しい金具を見つめたまま。どうせ外れないシートベルト、試すまでもない。
「降りて……どこ行くつもり?」
「……?」
 意味ありげな声に、目線を向ける。
 さっきと同じ。……楽しそうに目が笑っている。
「キミの帰るところは、もうあの家にはないよ」
「!?」
 車が走り出した。
「待てよ……何? …俺、恵の所に行くんだ」
 行かなくちゃ。待ってる、小さなメグが。校門に寄っかかって、ずっと待ってるんだ。俺が行くまで。
 
 
 俺は変な胸騒ぎに襲われた。シートベルトをガチャガチャ鳴らすが、やっぱり外れない。
 父さんは何でもないように、これを着脱してたのに。
「おい! 車、止めろよ!」
 俺は焦れて、そう叫んだ。
 説明しろ! 
 なんで俺はまた、こんなとこに座っている?
 父さんは何のダシにされた? 何が起ころうとしている?
 
 
 悪魔は目線だけ、俺に寄越した。──興奮を抑えている。…そんな顔で、楽しそうに俺を観察する。
「克晴はね、今日から僕と暮らすんだ」
「──!?」
 言葉の意味が、飲み込めない。
「大学に入ったから、自立をしたい。恵の面倒を見ていては自分の将来に責任が持てない。だから、あの家を出て一人暮らしをしたがってる」
「─────」
「克晴にそう相談されたって、先輩に言ったんだ」
「!!!」
 俺は目を見開いて、平然と運転を続けるその横顔を見た。
「で、僕は克晴一人じゃ心配だけど、言ってることは判る。だから、僕が責任持って預かるって先輩に言ったんだ。同居なら心配ないだろ?」
「───」
 俺は、呆れ過ぎて、言葉が出ない。
 
 なんだって……? 
 俺が……恵の面倒を放棄 ? ……それを信じたのか……父さんは?
 
 俺のことを何もわかっちゃいない、父親という権力者。
 ……そして
「……同居?」
 意味不明なその言葉。
 俺の世界。俺の生活。それはすべて、恵と共にあの家にあった。
「なに言ってんの、あんた……」
 今度こそ、声に出して笑ってしまった。冗談にも程がある。
 
 車が大きなマンションの駐車場に入って、停まった。
「ここ。ここが、克晴の新しい住まいだよ」
 ハンドルに右腕を乗せて、俺に身体を向けた。
 にやりと笑うその目が一層大きくなって、俺を飲み込むように見る。
「───!!」
 本気で言ってんのか?
 未だ信じられない気持ちだった。
 マンションって……同居って……何故そこまでやる?
 得体の知れない恐怖が、湧き起こる。
 今更ながら、シートベルトに手を掛けた。外れない金具を、がむしゃらに引き抜こうとしてみる。
「無駄だって。ほんとうに成長しないよね、そういう所」
 オッサンが笑って、手を伸ばしてきた。
「! ……触るな!」
 身体を出来るだけ遠ざけて、顔に触れようとした手を、思いっきり叩いた。
「降ろせよ! お前が何を言ったって、そんなの関係ない!」
 俺は憎悪の目を向けて、喚いた。
「父さんがどっちを信じたって構うもんか! 俺の家はあそこしかない……俺は帰る!!」
「……“お前”なんて……本当にもう許さない。そんな呼び方」
 目を暗く光らせると、ハンドル下のポケットからハンカチとスプレーを取り出した。
「!」
 俺は、息を止めた。
「そう、これは初めの時のスプレーだよ。もう一回吸ってもらう」
「………っ」
「こうでもしないと、部屋まで連れていけないからね」
 ハンカチにスプレーのノズルを押し当てる。シュッと音がして、布の中心が濡れた。
「やめろ……」
 乾いた声で、睨み付けた。
 悪魔は身体を乗り出してきて、それを俺に当てようとする。俺は両手を振り回して阻止した。でも息を止めて抗っているので、抵抗も長くは続かない。苦しくて、力が入らなくなった。
 隙をつかれて、ハンカチが俺の口と鼻を塞いだ。
「や…嫌だッ…」
 息を止めながら、声だけ出した。首を横に振る。何度も何度も。
「嫌だ…やめろ……」
 押しつけられたハンカチは、俺を逃がさない。反対の手で、頭を押さえ込まれた。
 苦しい…息を止めていられない。
「克晴。……吸って」
 耳元で、囁かれた。
「………ッ」
 苦しすぎて、大きく息を吸ってしまった。あの時と同じ匂い。甘い香りと痺れが、身体を回っていく。
「…うッ……」
 激しい目眩と脱力感が、襲ってきた。
 ………駄目だ。力が入らない…。
 押しつけ続けたられたハンカチのせいで、前回よりも多量に吸い込んでしまった。手はだらりと垂れ、身体はシートベルトに引っかかるようにずり落ちた。
 肩で荒い呼吸を繰り返す。悔しくて、力無く歯ぎしりした。意識が霞んでいく。
 目線を横に向けると、オッサンも少し薬を吸ってしまったらしい。口元に手を当てて、呼吸を整えていた。
「……バカ…じゃん」
 俺は笑ってやった。その声に、じろりと俺を見る。
「……注射器なんか置いといて、先輩に見つかったら、大変だからね」
 薄く笑いながら言う。
「それに…、僕へのペナルティのつもりもあるから……」
 一瞬、俺じゃないどこかを見つめた。
「……?」
「ついでに言うと、僕にはこの薬は、あんまり効かない」
「!?」
「だから、そういうモンかと思ってたんだ。克晴にこんなに効くとは思わなかった」
 言いながら、俺のシートベルトのロックを外す。
 俺には見えない角度なので、どうやって外しているかは判らなかった。
 
「さあ、行くよ」
 
 消えていく意識の中で、オッサンの声が近づいてくる。
「………クッ!」
 抵抗してみても、何にもならない。身体を抱えられた感触も最早わからず、視界も意識も真っ暗になっていった。
 


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