chapter15. unlock the time -未来を求めて-
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 俺はその日から、全く何も食べなくなった。
 食欲が湧かない。喉も渇かない。
 
 それまでは、逃げ出す時を考えて、体力を保っておかないといけないと思っていた。前回、懲りたからだ。
 だから運んでくる食事は、なるべく食べていた。
 
 でも…。
 そんな必要がないとしたら。
 逃げ出すチャンスなんて、あるはずがなかったら。
 そのためにせっせと何か食べるなんて、滑稽でしかないだろう…その思いが、俺から食欲を奪った。生きる生命欲すら、薄れていった。
 
 ベッドの上で、だだじっとしていた。ヤリたきゃ、ヤればいい。オッサンが俺に近づけば、そんな思いで身体を差し出した。
 
 前に何度も思った。
 いっそ何も感じなければ、いいのに。冷凍マグロみたいに、横たわってるだけなんだ。そしたら、オッサンもつまんなくて、こんなコト辞めるかなって。
 
 俺の心は、もう、何も感じていなかった。
 痛みも、悲しみも、快感なんてのも。
 でも、身体は勝手に悦んでいた。激しい打ち付けに腰を震わせて、前を扱かれれば、ちゃんとイった。
 オッサンは、それでいいのか分からないけど…そんな俺でも、毎日抱いていた。
 毎日なのか、一日に何度もなのか……
 もう、わからなくて、朝か夜かはわかっても、いったい何日過ぎているのか、どのくらい経っているのか。まったく計ることが出来なくなっていた。
 
 
 
 
「──克晴」
 せっぱ詰まったオッサンの声。
 何度も聞いてる気がする。
「克晴。何か食べて」
 俺の頬を撫でる。
「お願いだから、何か食べてよ」
 悲しい声。でも、そんなのどうでもいい。
「──もう、注射じゃ持たない…死んじゃうよ」
 
 ──死、というキーワードが、俺の心を動かした。
 そうか、死んじゃえば楽になる。
 こんなの、終わりになる。俺は、ちょっと嗤ったと思う。口の端を上げたんだ。
 オッサンの手が震えた。俺の肩を掴んでいた手に、力がこもる。
「…死なせなんか、しないよ」
 虚ろな俺の目を、正面から覗き込む。
「手足を縛って、鼻から喉にチューブを通して、ミキサーに掛けた流動食を、胃に直接流し込むんだ」
「………」
「そうやってでも、僕は君をこんなことで死なせはしない!」
 ガクガクと身体を揺すられた。
「………」
 俺は動かない頭で、今の言葉を反芻していた。
 
 ──死なせやしない
 
 ……どうやって? 
 俺はもう、生きていたくないのに。
 体力が落ちていくのが、すぐわかった。
 足枷が重くて、ベッドから出れなくなった。
 キッチンまで自由、だって? はは、…あの日っきり、俺はあっちの部屋に行っていない。
 
 手足を縛って、喉にチューブを……
 
 吐き気がした。
 
 直接、胃に流し込む……?
 
 白黒に霞んでいた頭に、色が戻ってくるようだった。
 
 ──こいつなら、きっとやる。
 ……俺、死ねないじゃん。
 
 
 そこまでして、生かされることを想像して、俺の心臓は動き出した。
 
 ───冗談じゃない…!
 
 鼓動が激しくなってくる。
 “死”という、短絡的だけど確実な逃げ道。
 最終手段として、それ以上ない自由。俺は、そこに望みを繋いでいたのに。
 
 ミキサーに掛けた流動食を……
 
 また、吐き気に襲われた。
 そんなことされて、死ぬに死ねない、生きるに生きれない……そんな状態になるのかと思うと、心底ぞっとした。
 そんなことされるくらいなら、自分で食べる…!
 
 俺の眼に、光が戻った。
「…………」 
 声がでない。喉が掠れて、力が入らなかった。首だけ横に振った。
「──!!」
 オッサンが、俺の変化に気が付いた。
「克晴!? 聞こえた? ……食べてくれるんだね?」
 必死に俺を見つめる。
「…………」
 俺はその顔を正面から捉えて、ゆっくりと頷いた。
 
「……!」
 ふわっと、抱きかかえられた。
「よかった! よかった……」
 いつまでも、そう言って泣くオッサンの声が耳元で聞こえる。──その声を、俺はどこかで聴いた気がしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
「少しずつだよ、胃が受け付けないからね」
 心配そうに、俺を見る。俺は頷いて、一口重湯をすすった。
 ごくりと飲み込む時、喉が反発する。うっと吐きそうになる。
 水を少しずつ飲んで、訓練はしていた。重湯は水にとろみが付いた程度の液体だけど、それでも俺は食べなさすぎていた。
 異物を受け付けない喉は、拒否を繰り返す。胃に入った物は、胃が拒否した。
「う……」
 吐き気がするたび、オッサンが背中をさすった。
「辛かったら、吐いて。後で、食べ直せばいいんだから」
「…………」
 俺は無言で頷いて、スプーンを置いた。
 
 何度かリバースを繰り返しながら、何日もかけて、やっと普通に飲み込めるようになっていった。
 重湯でも、食べ始めると体力が戻ってくるのが手に取るように分かった。思考能力も回復してくる。浅はかだった考えも、今なら考え直せた。
 
 ───生きていなきゃ。
 
 いつか、逃げ出す。そう思って、生きていなきゃ。
 恵に「ごめん」て、謝らなければ。恵の人生に、俺は責任を持たなきゃいけないんだ。
 
 犯されるたび、お願いと言わされるたび、辛くて後ろ向きになってしまっていた。
 でも、だめだ。
 
 ───俺は、自分の時間と空間を、取り戻す。
 そう思って、前に進めるように動き出すんだ。
 
 心を取り戻すことは出来た。
 打ち砕かれたプライドは、立て直せばいい。
 負けたら、本当に負けなんだ。
 そう考えることができてから、俺の路は、俺の前に姿を現した。
 
 
 
 
 
 俺は自分の意志で、オッサンの籠の鳥として、歩き始めた。
 そして、恵も──恵達も。
 
 今、恵がどうなっているかなんて、俺に判るはずがない。
 でもはっきりしていることは、恵は恵で、俺の居ない世界を生きなければならない、ということだ。
 たったそれだけのことで、この世界はあの子にとって、未知のものだろう。
 霧島が、あいつが恵の助けになっていくことと思う。………そう願っている。
 あいつの成長は…あの面変わりは、恵のためだったんじゃないか。
 あいつは、そのために急成長したんだ。
 ───恵のために、心からそう願う。イヤミなほど、俺に似てきやがって……
 
 これからのタイムラプスは霧島、おまえなんだ。
 ………おまえが、恵のアルバムを作っていってほしい。
 
 
 
 
「─────」
「なに? 克晴。……また泣いてる」
 俺を犯りながら、オッサンが訊いてきた。
「……別に。さっさとイケよ、雅義」
「…………」
 額の汗を拭われて、唇を重ねられた。無言で腰の動きを、激しくしてくる。
「────くっ!」
 
 俺は恵のために、涙を流すのをやめた。
 俺は泣かない。
 これからも、それは変わらない。
 いつか、恵に会える時まで。俺に涙なんか要らない。
 泣いてる暇は無いんだから────
 
 
 
 
「克晴、克晴──!」
「……あぁっ……」
 
 
 
 
 
 
 
 
 ───俺は、泣かない……この悪魔と、闘うんだ。
 
 
 
 ……そう誓った俺は、なんでそんなに意地を張るのか、まったく分かっていなかった。
 俺の哀しみの理由(わけ)は、全然違う場所にあったのに。
 
 そんなこと、気付くはずもなかったんだ。
 
 
 
 
  -第2部  完-


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