chapter19. Spread wings~おでこじゃ遠いから~
1.2.3.4.
 
 3
 
 繰り返す……
 戸惑って、立ち止まっては、また歩き出す。
 押し寄せる哀しみと喜びを、交互に…交互に……
 
 毎日毎日、雑多なことに追われながら。それでも俺たちは、昨日より一歩、前に出る。
 お前は特に迷うから。
 俺が手を引いていく。
 幸せだった時間を振り返り、還りそうになる天野を……
 そのたびに俺も、いっしょに記憶を遡る。
 どれだけ甘い世界にいたか。
 守られた空間にいたか。
 
 俺は知ってるから。判ってるから。
 もう泣かせない。
 俺がその揺りかごを作ってやる。
 
 そう思ってきた。この3年間……俺は、お前を守って…これからも、そうでありたかった。
 
 ───天野……お前が、好きだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「天野君…君を愛していた。それは、本当のことだ…」
 
 
 始めは生気のない、なんだか空っぽな感じの声だったのに。
 喋りだしたサクラバが、だんだん興奮していくのが、判った。
 
 勝手なコトを語り出したヤツは、とうとう言葉でも責めだした。
 必死に言い返そうとする天野の言葉を遮って、
 
「聞きなさい…天野君…君は、確かにぼくに感じていた。お尻が好きだったよね…」
 
 ───何を言い出すんだ、コイツは…
 俺は愕然として、息を殺しながら、サクラバの後ろ頭を見つめた。
 ちっとも懲りてない…。それが、信じられなかった。
 天野が受けた痛み、どうして判らないんだ……2年間、何を反省してきたんだ?
 
 
 
「ぼくを受け入れたときの、吐息…喘ぎ声…目線…とても嫌がっているようには、見えなかった」
 
「うそ…うそ…」
 
 
 責め続ける言葉に、耳を塞いで。天野が泣きそうに俯いて、首を横に振る。
 震えてるのが、植木越しだって判った。
 聞くに堪えない、恥ずかしさを煽る言葉だ。俺だって、こんなの直接言われたら。
 ……駄目だ…また戻ってしまう…あの泣き続けた、羞恥と後悔の心に。
 止めさせなければ! …そう思った最後、サクラバは信じられない言葉を言いやがった。
 興奮して、声高になりながらも……
 
 
「あのまま、すごしていられたら…君はもっとぼくを受け入れてくれたはずなんだ……克晴じゃない、このぼくを!」
 
 
 ────なに……言うに事欠いて、何を言ってんだ!?
 ……もう、許せねえッ!
 
 頭も体も、怒りで燃えるように、熱くなった。
 ぶん殴ってやるッ!
 
 考えるより先に、体が動いていた。立ち上がって、ボックスを回り込もうと睨みつけた瞬間、葉っぱ越しに、同時に天野がハッとした顔を、サクラバに向けたのが見えた。
 ────え…?
 
 あんなに泣きそうで、潰れそうに真っ青になっていたのに。
 真っ直ぐにサクラバを睨み付けて、頬を高揚させて────
 
 
「先生なんかじゃない……僕……克にぃがずっと好き!」
 
 
 聞いたことのないくらい、張りのある声だった。
 “助けて…僕を信じて────!!”
 そう保健室で叫んだ時とは、全然違う、確信に満ちた声……
 俺の、怒りとサクラバを殴ろうとした衝動は、それを聞いた途端、どっかへ行ってしまった。
 それどころじゃない、別の驚きで…一瞬頭が真っ白になった。
 天野の叫びだけが、届き続ける。
 
 
「先生に汚されて、資格を奪われた……それでも、僕は克にぃのモノでいたい…」
 
「克にぃを好きでいる限り、僕は克にぃのものなんだ…先生なんかじゃないッ!」
 
 
 
 
 
 
 
 ────天野………
 
 
 
 大きく見開いた眼で、眉を吊り上げて、対峙している。
 頬を濡らし出した涙が、顎を伝って滴り落ちていく。けれどそのカオは……今までの、弱くて泣いていた天野じゃなかった。
 
 立て続けに、追い打ちを掛ける。
 
「……もう…戻って来なくたって───僕を大事にしてくれた克にぃが、いつまでも…好き…先生になんか…わかんない」
 
 
 最後の方は、声が掠れて、それでも言い切っていた。
 
 ───克にぃのモノで、いたい……戻ってこなくても、好き───
 
 叫んでいる相手は、サクラバだ。
 でも、これが天野の本心─── ヤツを突き抜けて、俺の胸にまで、突き刺さってきた。
 
 
 ……ここまで言われて、どうしろってんだ…俺。
 自嘲気味な笑いが、込み上げてきた。
 
 
 こんな天野は、初めてで……ここまで強くなってたのかって、感動と。
 ─── そんで、すっげ…寂しい。
 俺、どうしたって克にいには、勝てないんだなって…。
 ……それから、どこかホッとしてる気持ちもあった──やっぱ変だ、俺。
 
 半端に立ち上がっていた腰を、イスにドサリと落として放心していた。
 その後のサクラバの声なんか、ろくに聞こえなかった。 
 
 ふらりと立ち上がった天野に気付いて、後を追った。
 その時サクラバに何か言ってやろうと、すれ違いざまに振り向いたけれど。
「─────」
 苦々しいカオ……。
 苦虫を噛みつぶしたように眉をひそめて、口の端をゆがませて、テーブルのコーヒーカップをじっと見つめていた。
 自分を抱えるように組んだ腕…やつれた頬。
 
 コイツは…俺が言うまでもなく、天罰を受けてんのか。
 そう感じたら、何も言葉が出なくなった。
 
 
 
 
 
 俺に気付きもしないサクラバを置いて、俺は天野を追いかけた。
「……大丈夫か!?」
 ふらついて倒れそうになるのを、肩を押さえて、支えた。
 何処を目指しているのか、こいつ自身、判ってないような歩き方だった。
 真っ青な顔……心配する俺に、天野は意外にも、にっこりと微笑んだ。
 
「カッコイイ、大人みたいだよ」
 
「……何、言ってんだ」 
 驚いたけど、俺もそれで緊張がほぐれて、つられて笑っていた。
 俺だって、自分では気付かないほど、ガチガチに気を張っていたんだ。
 慣れない帽子なんか被ってて、脱いだら解放されたように、頭が軽くなった。
「……………」
 見かけだけ、大人ぶったって…俺にはまだ、早い。
 そう思った。
 
「天野、お祝いしようぜ、おごってやるよ」
 このまま帰りたくはない。
 もっと天野と一緒に居たかった。
 と言っても、俺の小遣いじゃ、たかが知れてるけど……
 
「さあ、食え!」 
 やっと座ったバーガーショップの硬いイスは、俺たちには合っていた。どちらともなく、二人で見つめ合って、笑ってしまった。
「ありがとー霧島君、いただきますー!」
 喜びは見せるけど、手が進まないでいる。
 
 クリーム色のダッフルコート。白いシャツ。
 学ランなんかより、よっぽど天野によく似合う…克にいが選びそうな、服だった。
 ちょこんと座って、ちょっと俯いて…ぼんやりポテトを眺めてる。
 ……可愛いな。
 私服の天野と遊べること、俺の特権だった。
 無防備な仕草も、向けてくる笑顔も……俺にだから見せる、素顔も。
 もっともっと、独り占めしたくなる。
 
 ……俺を見てくれ。俺を、呼んで……
 
 あの夢は、俺の心からの願望だったんだ。
 一緒にいると、抑えきれない。好きだと言ってしまった。振り向いて欲しいと思う。
 
「食えよ」
「…うん」
 
 ……でも、夢の続きを想像してみたんだ。
 “霧島君”
 あの時、そう俺を呼んでいたら?
 ……違うんじゃねえの?
 克にい、克にい、って言い続けた天野……今でさえ、俺を見ない瞳は、克にいの姿を追っているんだ。
 ───俺は、そんな天野だから……可愛くて…
 
「天野……よく頑張ったな」
 
 愛しいって思う気持ち、“好き”より胸が熱くなる。
 顔を寄せて、囁いた。
 頑張ったコイツ…それは、克にいのため。……克にいが天野を、強くする。
 
「………うん」 
 
 嬉しそうに、微笑む。
 そして、目を潤ませてから、じっと……真剣に俺を見返してきた。
 
「……ありがとうね、霧島君…また助けてもらった」 
 
 
 
 俺は役に立ったなんて、思わなかった。天野は、自分の力でサクラバに勝ったんだ。自分で電話して、自分で言い返して────
 俺の腹が、やっと決まった。
 俺の出来ること…それは、最後の克にいの代わりだ。
 ───すっげー…言いづらいけど……今度こそ、俺が、コイツを助ける。
 
 気になっていたんだ。サクラバに言葉責めされていた時の、反応…。
 “自分を嫌い”…そう言って、泣いた意味が。
 
 俺の勇気。何でも隠さず、言うって決めた───涙の原因を、取っ払ってやるんだ。
「……あのさ」
 耳まで真っ赤になっているだろう。吐き出す息さえ、熱い。
 天野も同じように、真っ赤になった。
 
 
 
 
 
 真っ赤になって、泣き出した天野。ポテトの上に、涙を振りまいて、鼻水をたらしながらも、それを食べている。
 
『お…男なら…しょうがないんだ』
 そこまで言うのが、精一杯だった。
『克にぃにね…教えてもらってた。………でももっと、今…知った』
 そう言って、泣きながら微笑んだ天野。
 
 
 “恵を……頼む”
 あの時、俺が代わりに引き受けた、天野の保護者の部分───
 克にいがやり残したこと、俺、引き継げたんだなって、実感できた気がした。
 
 
 そして、終わりにしなけりゃいけない。
 天野と居続けていたら、俺はいつか我慢できなくなってしまう。振り向かせようとしてしまうだろう。
 また困らせて、泣かせるなんてしたくない。
 俺を見るようになったら…そりゃ、嬉しいけど……
 ─── そんなの、本当の天野じゃない。
 それを心のどこかでわかってるから、俺は…聞きたくなかったんだ。ベッドで俺を呼ぶ、コイツの声を。
 
 
 俺は二度目の決心をした。
 タクマさんに言われて迷っていた、夢の実現に向けての進路。
 天野が泣き続けるなら…まだ側に居てやりたかった。中学卒業までは、待つつもりだった。
 
 でも、思い知らされた。……弱いのは、俺の方だったって。
 “克にいが、好き”その揺らがない想い一つで、こんなにも天野は強くなっていたのに。
 
 
 
 
「……天野、強くなったな」
 
 もう一度、言っていた。
 
 ポテトを最後の一本まで口に詰めて。
 両手でジュースを持って、ストローを銜えている。その顔のまま、ぱちりと瞬きした目線だけ、俺に向けた。
「…うん」
 ちょっと照れたような、嬉しそうな顔。
 そのバーガーセットでさえ、前は一人で食べきれなかった。
 俺がいつも、手伝ってやってたんだ。
 ……自転車や、バスや電車に乗るのも、今は一人でできる。俺に引っ付かせる理由が、なくなっちまった。
 
「成長したな」
「……うん」
 噛み締めるように言う俺に、頬を赤らめながら、神妙に頷く。
 
 そして、サクラバ……
 あの影に怯えていた、泣き虫のコイツは、もういない。店を出た後の姿は、フラフラだったくせに…抱きつきも泣き出しもしないで、俺にニコリと笑った。
 ……克にいが帰ってこなくても、それでも…と、言い切った心が、こいつを支えている。
 
 
 
「天野は……本当に、克にいが…好きなんだな」
「───うん……」
 
 
 
 哀しいカオ、してしまっているのか、俺……。
 見つめ返してくる見開いた目が、不安そうに陰った。
 言い聞かせる…自分にも、こいつにも。
 
 
「俺がいなくても、…もう大丈夫だよな」
 
 
 
 ……天野の成長に、もう…俺はいらない。
 
 
 
 
「俺さ、来週いっぱいで、……タイに留学するわ」
 
 
 
 
 
「…………」 
 
 
 後は、俺の問題だ。 
 腹に力を入れて、精一杯の勇気…決心を、言葉にした。 
 ポカンとした顔が、何を言っているのって目で、見つめてくる。
 
「……俺、強くなりたい。心も、体も、もっともっと……」 
 
 留学するなら早い方がいいと、急かされていた。
 だから、ちょうど良いんだ。
 俺は本気で、総合格闘技をやってみたい。
 
「お前の横にいても、俺で居られるように、鍛えて鍛えて…強くなって帰って来る」 
 
「……帰って来るの……どのくらいで?」 
 
 縋るように顔を寄せてくる。
 食べ終わったトレーを邪魔そうに肘で押して、体ごと乗り出してきた。
 
 駅中の小さなバーガー店。入れ替わる客たちが、騒がしく通路を出入りするけれど。
 俺たちにはまた、そんなの目に入らなくなっていた。
 いつだって、お互いだけがいればいい、そんなふうに寄り添って来たんだから。
 
「……………」 
 茶色の目を見つめながら、俺は出来るだけ静かな声で、告げられている期間を口にした。
「タイで、立ち技を2年…ブラジルで、総合技を2年……4年はかかるって、言われている」 
「……そんなに?」 
 一瞬、明るくなった目が、また泣きそうに潤んだ。
「そんな顔、すんな」 
 腕を伸ばして、ぽんと頭を撫でてやった。
 
「天野には、克にいが居るだろ?」
「…………いない…よぉ…」
 
「克にいが、好きだろ?」
「……うん」
 
「俺、そんなお前が好きだから…振り向かせたくなっちまうの、ヤなんだよ」 
「………振り向かなければ、いいの?」
 
 
「……バカやろう」
 
 
 こつんと、殴ってやった。
 捨てられそうな子犬みたいに、縋ってくる。
 俺はそれを、抱き上げてしまいたくなる。
 でも、駄目なんだ……どんなに錯覚しそうになっても、天野の愛は、俺には向かない。
 
 
 泣き出した、小さな子供みたいになってしまった天野をあやして、俺は決心を変えることはなかった。
 


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