3.
 
 なんとかエレベーターに乗り込んで、1階まで降りた。
 ロビーを抜けて、ガラスの回転ドアをくぐると、久しぶりに見る外の景色が、そこにあった。
 歩道とガードレール、等間隔の街路樹、赤いポストと、コンビニの青い看板。
 正月も5日ともなると、巷もちゃんと活動していた。歩行者がかなりいる。
 
「うわあ……」
 空気が冷たい。お正月で車が少なかったせいか、空気が澄んでいる。
「空調とは違う……生の空気だね、久しぶり……」
 めいっぱい深呼吸した。
 冷たい空気で、頬が熱くなっているのがわかる。
 エレベーターの鏡にも、上気した自分の顔が映っていた。
 恥ずかしいな。こんな顔で人混みを歩くなんて……。
 
 
「こっち来い、車回すから」
 裏の駐車場の出入り口の方向を指さす。
「えー、運転、できるんですか?」
「当たり前だろ。ピックアップも営業も、運転できてなんぼだ」
「いいなあ、僕は取りたかったけど、お金が貯まらなくて……」
 情けない笑いを、光輝さんに向けた。
 仕事が順調だったら、免許を取って、もっと割のいい仕事を……と考えていた頃もあったんだ。
 光輝さんの顔が、ちょっと暗くなった。
 あ、……こんなビンボ臭い話は失敗だ。僕は慌てて、歩き出した。
「ん……」
 ディルドが前立腺に当たると、足に力が入らなくなる。
 よろけた身体を立て直そうとして、踏ん張ったものだから、余計刺激してしまった。
「あぁ……っ」
 転ぶ!
 まるっきり身体が言うことを効かない。もうダメだと思った瞬間、
 ふわっと、宙に浮いた。
 両足が地面から離れる。
 光輝さんが、傾いた僕の身体を抱き留め、そのまま掬い上げたのだ。
「大丈夫か?」
 顔を寄せて聞いてくる。
「あ……、ありがとうございます……」
 お姫様抱っこを公衆の面前でされて、僕は戸惑ってしまった。
「だ……大丈夫です。降ろしてください……」
「いや、このまま行く」
 ええっ……。
 他の社員が見ているかもしれない。社長だって見るかもしれないのに。
 変な誤解を受けたくない。僕は懇願した。
「いいです、離してください! 降ろして……っ」
 もう歩き出している光輝さんは、僕の声など聞きやしなかった。
 自分の車の前まで抱えて行って、助手席に座らせてくれた。
「んっ……」
 座るときに、かなり刺激を受けた。腰を前にずらして、背中でシートに座る。
 バタン! と乱暴に、運転席に光輝さんが乗り込んできた。
「そんなに、俺に抱えられるのが嫌か?」
 シートベルトをしながら、横目で聞いてくる。
「えっ、いえ、誰かに見られて、へんな誤解を受けたら大変だと……」
 僕はびっくりして、声をひっくり返しながら、答えた。
 嫌なはずがあるわけない。許されるなら、ずっとしがみついていたいのに。
「……誤解、ね」
 エンジンをかけて、ハンドルを握る。
 サイドブレーキを引き下げた手が、僕の腕に触れる。その手を握れたらどんなにいいだろう。
 何処へ向かうのか、光輝さんは無言で車を滑らせた。エンジン音が低く心地よい。
 光輝さんの車は、真っ黒いシルビアだった。
「社長が、車は見栄を張れっていうから。ま、それでも俺のは普通だな」
 光輝さんによく似合っていると思った。
 
「そうだ、これを付けろって」
 だいぶ走って、広い公園の横にハザードランプで停車すると、ダッシュボードから万歩計を取り出した。
 僕のGパンのベルトに付けてくれた。
「歩いた歩数と、付けていた時間。記録が欲しいらしい」
「……はい」
 こんなモニタは、二度と嫌だと思った。
 適当な報告書にすれば、今度から僕を指名しないかなあ……。
「どうせ歩くなら、ここがいいと思って」
 光輝さんは自然公園のパーキングに車を止めた。
 長細い大きな池があり、ボートで遊べるようになっている所だ。古くからの森林や水流を活かした環境で、全体的にかなり広い。
「公園までちょっと歩くけど、どうせそれが目的だからいいよな」
 助手席から僕を降ろしてくれると、また僕の苦痛の時間が始まった。
 池の周りには所々にベンチがあるので、歩けなくなったらそこに座った。
 今年は暖冬のようで、寒すぎないのが助かった。
「ん……待って……」
 休んでも、身体の火照りは治まらない。
 歩けば歩くほど、刺激が蓄積されて、ズボンの前が相当大きくなっている。
 池の半周もしていないのに、ちゃんと歩けなくなってしまった。
 
「どうしよう……歩けない」
 ベンチに両足を上げて、横になっていた。
「……もう帰るか」
 心配そうに覗き込む、光輝さん。
 思案顔で池の向こうを見て、急に立ち上がった。
「ちょっと待ってろな。すぐ戻る」
「え……?」
 何処に行くというのだろう。
「誰かに声かけられても、無視しろ!」
 大声で言い残しながら、走って行ってしまった。
「………」
 油断すると、後ろが押し出されそうになる。
 時々ぐっと力を入れては、その後に襲われる刺激と闘った。
 はぁ……、はぁ……。
 下半身が熱い。もういっそ、自慰をして楽になってしまいたい。
 そんなことを思いついて、慌てて頭を振った。
 万歩計を傾けて見てみると、殆どカウンターは動いていなかった。
 そっと歩いているから、針が振れないのかもしれない。
「なんだ……意味無いじゃん……」
 一人ごちてみる。
 
 
 
「……巽……君?」
 不意に頭の上から声をかけられた。
 聞いたことがない男の人の声。
 身体を半分起こして振り向くと、細い銀縁眼鏡のお兄さんが立っていた。
 やっぱり知らない。
「……あの?」
 僕は、あまり人に会いたくない状況だから、困惑した。
「初めまして。私は尾崎コーポレーションの企画部にいる、堂目(どうめ)という者です」
 握手を求めてきた。
「ああ、会社の……。ごめんなさい、あの……僕は会ったこと……ないですよね?」
 やっとこ、手を握ると聞いてみた。
「ええ。私が一方的に知っているのです。私が企画した試作品を、レポしてくれたでしょう」
「あっ……!」
 僕は真っ赤になった。こんな所で、そんな人に会うなんて……。
「素晴らしい的確な評価をしてくれるので、とても参考になります。今後もヨロシクお願いしますね」
 爽やかに、笑顔を零した。
 一見、インテリ風で堅そうだけど、笑うと雰囲気が変わる。
 僕も曖昧に笑って、やり過ごした。なんて言っていいか分からない。
 挨拶だけすると、その人はグレーのロングコートを翻して、駐車場の方へ行ってしまった。
「すまん、待たせた」
 すぐに光輝さんが走って戻ってきた。頬が上気している。
「なんだ、起きたりして。大丈夫なのか?」
「あ……うん」
 僕は今の人のことを、言おうか迷った。
「なあ、どっちがいい?」
「え?」
 光輝さんの手にはおみくじが二つ、握られていた。
「!!」
 これを買いに走ってくれたのだ。本当は二人で買いたかったのかも。
「池の一番端にあるから。スゴイ走った」
 息を整えながら、笑った。
 僕も笑ってしまった。可愛いな……とか思って。
 僕より8歳も上なのに。
「じゃあ、こっち」
 向かって左を引き抜いた。
「小吉」
 紙を広げると、声に出して読んだ。
「普通だな。俺は……凶か。つまんねー。いっそ二人して大凶とか、大吉とかの方が面白いのに」
「あは、大凶はやだなー」
 詳しい運勢を読んでみる。
 ”今年は待ちの年。あせらず来る人を待ちましょう。
  良い仕事に恵まれます。
  大病の兆しあり。健康には気を付けて。”
 ふうん。……小吉のわりに、良い運勢だと思った。
「光輝さんの、恋愛運は?」
 凶には何が書いてあるのか気になった。
「つまんねーよ。引っ越せとか、当たって砕けろとか。健康だけはいいみたいだな」
 ぴらっと僕に寄越してくれた。
 ”南南東の方角が吉。そこに居をかまえれば、厄は防げます。
  思い人には想いを伝えるべし。
  大病はしませんが、不摂生をしなければ小病も防げます。”
 ……なんだこりゃ。凶っていい加減だなあ。
「おみくじって、面白いね」
 僕は笑いながら、紙っぺらを光輝さんに返した。
「これで今年が決まっちゃうなんて、へんな伝統」
「信じる信じないは、兎も角な。年始めの運試し、ラッキーかどうか位は分かる」
「フツーだったね」
 二人で声を上げて笑った。
「僕、もう大丈夫」
 僕はおみくじに勇気をもらって、元気になっていた。大事に胸ポケットにしまった。
 頑張って、ベンチに掴まりながら立ち上がる。
「ん……」
 さっきまでよりはマシだった。
 Gパンの前も落ち着いていたし。
 でも、光輝さんの顔が曇った。腰のカウンターを覗いたから。
「歩数、いってないな……」
「うん……。ゆっくり歩いてるから、カウントされないのかも」
 僕も気になって言った。
 歩数指定まであるのだろうか。
「少なくとも、500歩は歩けって。……書いてあった」
「!!」
「ここを歩いてれば、結構な歩数になると思ったんだけどな……。寒いから客なんていないし」
「………歩きます」
 僕は早く終わらせたかった。帰ればそれで終わりかと思っていた。
 光輝さんの言うとおり、社内で歩くよりここの方が人と会わないし、気が紛れる。
 怒りのようなものまで込み上げてきた。なんでこんなこと、させられるのか。何で僕なのか。
 
 光輝さんの腕に掴まりながら、ゆっくり歩き出す。
 でも、池を半周したあたりで、やっぱり歩けなくなってしまった。ベンチに横になって凌ぐ。力が入らなくなって、すぐに出て来そうになるのだ。
「出ちゃう……押さえてられないよぉ……」
 身もだえしながら、小さく訴えた。
 また前が苦しくなっているし。
「光輝さん……。もう出しちゃダメ?」
 しがみついて、見上げる。
「……最終手段はある」
「………?」
 コートのポケットから、封筒のような紙袋を取り出した。
 その中から、真っ黒い固定ベルトが出てきた。
「これはこれでキツイと思う。でも落ちてしまうことはもうない」
 僕は光輝さんの手から垂れている、ゴムと皮で作られているそれを、凝視した。
 いわゆるTバック…。よく女性用下着で見かけるアレと同じような形だった。しかも、真っ黒い革製の。
 唯一恥部を隠す布があるべき三角形の部分には、真ん中にポッカリ穴が開いている。
 穴にはその円周と同じくらいの皮ベルトが縫い付けられていた。
 見ただけで、どう使うかが分かる。
 光輝さんが持っていると、それだけでとても卑猥に見えた。
 この人は黒が本当に似合う。
 ゴクリと喉を鳴らした。こんなもの、ほんとは嫌だ。でも……。
「光輝さん……。僕をトイレに連れてって……」
 そう言って、僕は両手を差し出した。 
 
 
 


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