chapter3. true courage  -ほんとうの勇気-
1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9.
 
 6
 
 「……あッ!」
 
 
 あんまり焦って駆け下りていたから、足が滑った。
 ───落ちる!
 階段の途中から転げ落ちて、床に叩き付けられると思った。
 
 
 
「おッ!?」
 
 
 
 誰かに抱き留められて止まった。
 
「……天野!? 大丈夫か!?」
「柴田先生……」
 
 
 あちこち痛くて、目も回ってて…
 それでも、必死に見上げて、受けとめてくれた正体を、確認した。
 
 
 先生も、僕だと分かって、驚いていた。
「何があった? ……例の嫌なことか!?」
「…あ……いえっ…」
 慌てて首を振った。似てるけど、ちがう……。
 
 僕の顔は真っ赤で、涙も流してて、慌てていて……ケガもしちゃって。おかしなことばっかりだと思う。
 それでも、やっぱり説明なんかできなくて……
 そこで言葉を切ってしまった。
 
 
「…そうか。───どこか、痛いか? 大怪我はしてないな?」
 柴田先生は心配して、立たせた僕の足や頭を看てくれた。床に転がったランドセルも、拾ってくれた。
 そうしながら、何度も何度も……じっと僕の顔を見つめてきた。何かを聞きたそうに……
 
 ───先生は、待ってるんだ。……僕が何か言うの…相談の続きを…。
 
 でも、さっきので気が動転しちゃってて、何を言っていいかわからない。
 あとになって考えれば、
 ……メールが途中でごめんなさい……とか。
 ……もうちょっと、時間がほしい…とか…いろいろあったはずなのに。
 まだ目が回ってるみたいに、頭の中もグルグルしていた。
 
「………」
 ただ見上げるだけの僕に、先生はふぅと溜息をついて、微笑んだ。
「念のため、保健室いくか? 擦りむいてるしな」
 え……?
「いい! 先生……僕、平気!」
 慌てて大声を出した僕に、今度は驚いた顔を向けた。
「───天野?」
「…もう……痛くないから」
 
 先生のスーツの裾を握って、無意識に引っ張っていた。連れて行こうとするのと、反対の方向に。
 
「……じゃあ、先生と来るか? やっぱり天野の顔を見て、話したい……嫌か?」
「……いやじゃ…ない」
 
 首を横に振った僕に、先生はまたニコリとして、生活指導室に連れて行ってくれた。
 
 
 小さな明るい部屋に、この間と同じように、向かい合って座った。
「………」
 気持ちもだいぶ落ち着いて、僕なりに、考えることができていた。
 ……言い方を、間違えてた。
 嫌なのがイヤって言ったって、わかるわけ、なかったんだ。
 僕が訊きたかったのは……どうしたら勇気が出せるか、……なんだ。
 
 先生も僕を見ながら、色々思ってたみたい。
 口を開いたのは、先生の方が少し先だった。
 
「天野……」
「…………」
「俺の…先生の訊き方が悪かったんなら、ごめんな。お前からのメールが途切れて、いっぱい後悔した」
「あ………」
 
 それは───ごめんなさい。
 謝ろうとして見上げると、すっごい苦しそうな顔がそこにあった。
 
「昨日一日、天野からのメールを待ってた。その時、ずっと考えてたんだ。俺じゃ…先生じゃだめなら、桜庭先生はどうかなって」
「え?」
「あの先生は、もっと上手に相談に乗ってくれるはずだ。俺に言えないことでも、桜庭先生になら……」
「…や……いいです!」
 ───なに、言ってるの……柴田先生!
 
「嫌って、なんだ? そんな言い方……」
 ───なんで……なんで、桜庭先生なんて、言うの? 僕は、柴田先生に……
 
「やだ…あの先生は、キライ!!」
「天野! そんな風に桜庭先生を言うな!」
「─────!」
 思いがけない先生の大声に、僕の心臓が縮んだ。
 悪いことした生徒を叱るような、恐い顔……。
 
「もしかして、あれだろ? お前も後回しにされて、怒っているんじゃないか?」
 …………後回し?
「ちが…」
「今、桜庭先生は大変なんだ。あの先生のケガ、知ってるだろう?」
「先生、……聞いて…」
「あの先生は、何も言わないけど、生徒の為に体を張っているんだよ!」
 
 真剣な眼の中に、すごい怒り……
 僕をそんな眼で、柴田先生は見下ろした。
 
「ちがう……ちがう……」
 怖くて、声が出ない。でも、言わなきゃ……
 後回しとか、そんなんじゃない。
 嫌いな理由が、違うんだから……!
 
「何が違うんだ! 生徒達が何を知ってるっていうんだ? あの先生はね、誰にどう執拗に問い質されても絶対に、本当のことは言わない。ただ私に一言、漏らしたんだよ。“ぼくが守ってあげなきゃ”って」
「───────」
 ……それは、僕のせい。それは、感謝してる。
「でも……でも……違う顔が……」
「でもじゃない、ちゃんと聞け!」
「……!」
 ────あるんだよ、せんせい……違うかおが……
 ぴしゃりと言われて、心臓がもっと縮んだ。
 こんなふうに怒られたのは、初めてだった。
 やっと出かけた言葉が、止められちゃった……。
 
 怒られた……怒鳴られちゃった……
 柴田先生は、桜庭先生の方が大事なんだ………!
 
 
 頼もしく見えていた先生の顔が、ぐにゃりと曲がったように見えた。
 きーんと頭の奧で、先生の怒鳴り声がいつまでも消えない。
 胸と喉だけ、異様に熱くて……窓も天井も歪む。
 ああ、……僕、また泣いちゃってるんだ。頬に何か伝うのは、分かった。
 ───大人になりたいって、いつも思ってるのに。僕は、やっぱり泣いてばっかりだ。
 
 
「決して何も言わない。だから、被害届も出せなかったんだ。そうまでして、生徒を庇う先生なんだぞ! いっつもいっつも、生徒のことを考えてるような人なんだ」
 
「………………」
 遠ざかっていた先生の声が、また聞こえてきた。
 
「……は…、こんなこと、天野に言っても、しょうがなかったな。………すまん」
 怒りの気配が消えると、本当に済まなそうに僕の前に、屈んだ。
「最近生徒達の中で、桜庭先生への不満が多くてな。……お前もかって思ったら…つい」
「───────」
「怒鳴って、ごめんな。泣かせるつもりじゃ、なかったんだ」
 頭をぽんぽんと叩いて、動けなくなった僕をあやす。
 
「…………」
「桜庭先生ほど、生徒を大切に思っている先生はいないよ。ちょっとのことで、キライなんて、言うな。俺に言えないなら、桜庭先生に聞いてもらいなさい! わかったな?」
 
 僕の両肩を掴んで、必死な顔して言う。
「……わかんない」
 相談に乗ってくれるって……
 何でも、言えって……
「ぼく、……柴田先生だから……」
 先生だから、何か言えるかもって、思ったのに……!
 “天野を助けたい”って、あの言葉が、嬉しかった!
 
 
 僕はその部屋を、飛び出した。
 先生は、先生同士がいいんだ…!
 とうさんの時と、同じだよ……!! 僕の声、聞いてくれなかった!
 
「天野───!」
 後ろで、叫び声───
 
 それを振り切るように、そこから逃げた。胸が痛すぎて、熱い。
 そこにぽっかり、大きな穴が空いていくよ。僕を引きずりこむ。
 克にぃ……
 霧島君も、緒方君も…柴田先生まで…………
 いなくなっちゃったよ。すがれる人は、もう誰もいない───!
 
 
 走り続けて、家の前で足を止めた。
 ────とうさん!?
 まだ明るいのに、とうさんの車がある。
 ……やだ、帰ってきてるんだ。
 泣いてるのを、見られたくなかった。 “お前は、どうしようもない”って目は、もういやだった。
 
「………………」
 家からも逃げると、普段行かない国道の方に走った。
 その向こうには、河がある。克にぃが、車が多くて危ないし、絶対一人では行っちゃダメだって、言ってた。
 大きい横断歩道を渡って、河原まで走った。
 
 
「…………はぁっ…はぁっ…」
 土手を駆け上がった途端、広い広い空……どこまでも上と下に続いてる河……
『すごいねぇ! すごいねぇ!』
 僕は連れて来てもらうたび、そう言っては空を見上げていた。
 
「うっ……ぅう……」
 思ったより人が多くて、それを避けるように河側に土手を下りて、草むらに入って泣いた。
 何が悲しいのか、何で泣いてるのかもわかんないくらい、泣き続けた。
「ぅうう……うぇぇぇ………克にぃ…克にぃいっ……」
 呼んだって叫んだって、来てくれないのは、判ってる……でも、そうしてないと、心がほんとうに壊れそうだった。
 
 
 
 
「おわ!?」
「えっ」
 
 やっと涙が止まった頃、いきなり草むらを掻き分けて、男の人が近づいてきた。
 お互いにビックリして、声を上げていた。
「………あれ、おまえ…」
「………?」
 僕をジッと見ると、ふっと笑った。
 
「おう、オレもうふけるわ! お前ら帰っていいぞ!」
「おー」
「じゃな」
 
 草むらの向こうとそんな会話をして、僕に近づいてきた。
「ちと、ションベンさせろや」
「………えっ!」
 驚く僕の真横でズボンの前を開けると、その人はおしっこをし出した。
 
「…………!!!」
 すっごい驚いて、ほんとに僕の涙は止まった。でも見ちゃ悪い気がして、慌てて顔を横に向けた。
「おい……オレが、わかんねえ?」
「……え?」
「オレ、お前の見てんだから、お前も見たっていいんだぜ」
「───────」
 
 
 心臓が、何度冷えたら、止まっちゃうんだろう。
 そんなこと、一瞬考えた。
 
 
 この人、もしかして………
「覚えてねーのか。まあ、伸也さんの取り巻きの一人だかんな、オレなんて」
 ズボンを元に戻しながら、ニヤリと笑う。
「───────!!」
 
 やっぱり!
 僕は恐怖で叫びそうになった。考えるより先に体が動いて、逃げようと立ち上がった。
「おい、待てよ!」
「やっ……」
 腕を掴まれて、恐怖が何もかもを、わからなくした。
 
 
「い…いやぁ─────っ!」
「やだ! 離して! 離してぇ!!!」
 
 
 絶叫を上げて、腕を振り解こうと暴れた。
 もうやだ! 
 あんな怖いの、もうやだよぉ!!
 
「おい! 静かにしろって! なにもしねーから!」
「やだやだやだ! 離して! 離して……!!」
 
「こいつ……おい、黙らねぇと、殴るぞ!」
「……やっ……!!」
 
 振り上げた拳が目に入って、怖くなった。その恐怖で、声が出なくなった。
「うし……、黙ったな」
「…………」
 
 ほっとしたように拳を下ろして、その人は僕の両手首を掴んだ。
 ビクッと揺れた体を、逃がさないように強引に引っ張る。
「なに、泣いてたんだ?」
「……!?」
「よう、また悪さされたのか?」
 
 上から覗き込むように、僕を見る。
「顔、擦りむいてんじゃんか。何されたんだ?」
 
「…………」
 僕は、ただ怖くて……首だけ振っていた。
「家、帰ってねぇのかよ。ガッコは行ったんか? ガッコで何かされたんか?」
 ランドセルを見ては、眉を寄せる。
「─────」
「そう、怯えんなよ。マジ、なんもしねぇから」
 困った感じで、優しく言うけど……
 掴まれた手首は、ずっと痛いままで。あの時の恐怖も、体が覚えている。
 
「……あんときは、悪かったな」
 
 しゃがんで僕に目線を合わせると、そう言ってまた笑った。
「なあ、また誰かに犯られたのか?」
「……………」
「おい! 返事しろよ!」
「……ちが…!!」
 また殴られそうで怖くて、僕は首をすくめて顔を必死に振った。
「違うんだな?」
「………」
 頷いた僕に、恐い顔をやめて、また笑う。
「……よかった。……なあ…そう、震えんなよ」
 
「─────」
 いくらそう言われたって、体が勝手に……
 恐怖が収まらない。震える心臓は、涙も押し出していた。
 
「あー、泣いた! ったくガキは……」
 掴んでいた片腕を離すと、僕の頬を掌で、ゴシゴシ拭き始めた。
「……やっ……」
 殴られると勘違いした僕は、また悲鳴を上げそうになった。
「黙ってろ!」
「ひ……っ」
 恐い顔で睨まれて、なんとか声を止めた。
 
 乱暴に顔を擦る手は、僕が泣きやむまで離れなかった。
「落ち着いたか?」
「………」
「もう、逃げないな?」
 
「………」
 
「なんか返事しろよ! 逃げないならこの手、離してやるから!」
 


NEXT /1部/2部/3部/4部/Novel