chapter7. crooked piece  歪んだ小片
                    -最後のピース-
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 5
 
「給料は、良かっただろう?」
 
 感謝しろと言わんばかりの笑みを、片頬に浮かべる。
「幸いキミの実績は、確かに優秀だった」
 
 
「…………」
 あたりまえだ。相手はグラディス、取引は胸下三寸で、ヤツに従っていた僕に悪いようには、しなかった。
 
 でも……金の…問題じゃない。僕はそんなの、1ドルだって使うことが出来なかった。
 初めの1年は、元々の貯金で充分だったし。その後は……
 5年間、自分の口座なんか見ることも許されなかった。総てがグラディスの、手の中で…。
 それより1年でも早く、日本に返して欲しかった。
 
 
「わかっていないだろうから、教えてあげよう」
 愕然としてしまった僕に、更に追い打ちを掛ける。
「君が帰って来れたのは、本当の出世株の人材のために、場所を空ける必要があったのだよ」
 クックッと、喉が厭らしい音を立てる。
「ただ、それだけのことだ」
「………………」
「勘違いしてもらっては困るが。君のためのポストが、空いたからじゃないんだ」
 
 
「──────ッ!」
 その嘲りと侮蔑を込めた目線……怒りで、カーッと目の回りが熱くなった。
 
 まるでちっぽけな人形のような扱い。
 そのくせ浅ましい人間に仕立て上げて、卑しめて───
「誰が…誰が、勘違いなんか……あれだけ放置されていて…ッ」
 怒りが激しすぎて、喉が詰まった。
 睨み付けた先には、余裕たっぷりに銀縁が光る。
 
 歪んだ笑顔が、第二波を放った。
「先程は何て言っていたかね、宮村君。……そうそう…天野さんに、認められている…?」
「……………!」
 途中わざと考えるフリをして、ちらりと僕を見る。
「ハハ…お目出たいねぇ。厚顔無恥とは、君のことだね。総て私のおかげだと言うのに」
 駄目な子供を見るように、小首まで振って。
 
「─────ッ」
 
 狙い通りの屈辱を、まともに食らってしまった。
 “功労者”なんて言ってもらえて、喜んだんだ……
 今度こそ、言葉が出ない。
 悔しすぎる。
 情けなさすぎる。
 たったさっき、先輩に元気をもらったのに。……それすら足元から掬われて、ひっくり返された。
 
 
 
 
 
 でも、僕がずっとずっと背負っている真の哀しみは、そんな事じゃなかった。
 僕がどんな目に、遭ったって。
 せめて、本当に2年で帰って来れたら───
 
 “克晴の一番大事な時期に、僕は側に居れなかった”
 ……それが何よりも、哀しいんだ。
 
 少年から、青年へ。
 育ってしまった身体は、もう………
 心の隙間は、埋められる。
 誤解は、解くことが出来る。
 
 でも、過ぎてしまった時間だけは……絶対、絶対……取り戻せないんだ………
 
 育ってしまった克晴を見た時、僕は本当に浦島太郎だと、思った。
 お袋の葬儀にも出れなくて……家はがらんとしていた。
 
 6年振りに帰ってきたと思ったら、そこは───見知らぬ未来の国。
 僕は完全に、独りぼっちだった。
 
 
 
 
「僕が…どれだけ泣いたと……」
 視界が滲んで…ヤツの顔が、よく見えない。だけど、精一杯睨み付けた。
 
「アンタのエゴは……酷すぎる!」
 
「エゴ?」
 興味深そうに片眉を上げて、驚いてみせた。
「私は、自分のやるべき仕事をしたまでだよ。君こそ、さっきからその言葉遣い……」
 肩を竦めて、不愉快そうな顔を作った。
 ……声は楽しそうに。
「社員として、どうだろうねぇ……問題があるねぇ」
 
 
「────────」
 コイツには、良心のカケラもないのか。
 歪んでいる。
 ……どこまでも腐りきってる。
 その心の無さに、ショック過ぎて、真っ白になった。
 
 僕は、こんなヤツの餌食になったんだ。大事な“時”を奪われて……未来も奪われた……。
 上手くいってたんだ、仕事だって。ちゃんと評価して貰えていれば、順当な出世は見込めていた。
 それを───
「──くそ……くそッ!!」
 返せ返せ! と、心が泣く。
 僕の時間を。
 失ってしまった未来を。
 克晴との……
 
「う…うぁあああッ!!」
 
 全身が震えた。
 腹の底のマグマが、もう抑え切れない。部長に殴りかかろうと、数歩の距離を詰め寄った。
「……ちくしょうッ!!」
 振り下ろした拳は、横の机を叩いていた。
 激しい衝撃音。震動、僕の叫び。
 痛みなんてわからない。でもまだ、我慢したんだ。堪えたのに。
 
 
 
「……克晴君は、私が引き取ろう」
 
 
 ──────!?
 
 ニヤリと笑った、マスカレードの仮面。その細い隙間の眼光が、煌めく。
 
 挑発する……何度でも。僕の我慢の上に、泥をぬって。
 そして、この言葉は決定打になった。
 
「君が天野さんの息子さんを、預かっているなんて。そこまで周到に、あの人に媚びを売っていたとは……それは、私が請け負うよ」
「なに……なに勝手なこと……」
「……克晴君か、天野さんに似た素敵な子だよねぇ」
「やめろ! その汚い口で呼ぶなッ!!」
 
 “克晴”
 その名がコイツの口から出た時……僕は、壊れた。
 僕の、唯一の制御コマンド。
 僕の総て───それを…それすらを、奪おうとするのか。
 
「君はどっちにしても、長くはないよ。私にそんな口を叩いて……。天野さんの信用は、確実に失うね」
「……そんなこと、させるか!」
 頭も体も、怒りで燃えるように熱い。また拳を、握り直した。
 でも部長は、僕の言葉なんて、完全無視だった。陶酔したように目を輝かせて……
「克晴君は……どうかなぁ? 君より私に懐くかもね……」
 フフと気色悪い声で、含み笑い。
「────!」
 ねっとりとした喋りが、克晴に絡みついてくようだ。
 何よりも許せない、この奢り!
「そんなやり方で……」
 
 懐く? 克晴が…?
 余りにも、己を知らなさすぎる。
 人の心を、ナメすぎてる。
 
「お前みたいな事をし続けて、手に入る訳がないんだ!!」
 先輩の愛なんか! 克晴も!
 
「ふうん…じゃあ、早く克晴君を渡したまえ。試してみようじゃないか」
 
 僕の怒りなんか、のれんに腕押しだった。
 部長はニタニタと笑い続けて、自己陶酔を始めた。
「……これで私も天野さんに、恩を売れる」
 頬を紅潮させて、口の端を吊り上げる。
「天野さんそっくりなんて、楽しみだねぇ」
 ─────!!
 もの凄い頭痛と耳鳴りが、その声と共鳴して、僕を襲った。
「……黙れッ!」
 
「大学生だったね。いいね……若くて、まだ肌も綺麗だろうねぇ…」
 ────虫ずが走った。嫌悪で蕁麻疹のような鳥肌が立つ。
「良い筋肉が、付いているんじゃないか…」
 ねっとりした吐息。
「やめろ…」
「試合は来てないけどねえ…鍛えているだろう?」
「黙れ…!」
「あの天野さんの骨格と似ているなら、さぞかし…」
 煩い、煩い…! 耳鳴りと雑音と、激しい頭痛…
「声変わりもしているね、私も少しは覚えているよ…小さい頃の…」
 
「!! …黙れって!」
 
 吐き気、目眩! だめだ。このままじゃ壊れる。
「ああ、……一緒に暮らすとなると、風呂も一緒に」
 や……
「黙れ黙れッ……穢れる!!!」
 無理矢理遮った、もうだめだ!
「おや────案外……君?」
 覗き込むように首を伸ばしてきて、うすら嗤って口をとがらす。
「やめろッ!!」
 黙らせないと!
 コイツを黙らせないと!!
 
「じゃあ、私も味見させてもらおうか……克晴君の」
 
「う、うぁあああッ!! それ以上、言うなあぁッ!!」
 机上にあった、工具用の大バサミを掴んで両手に持って────
 
 耳鳴りが自分の叫びも、掻き消した。
「雅義──やめろッッ!!」
 僕を止める叫び声も。
 
 服を突き破る手応え。厭らしい声は、ギャッという叫びに変わった。
 
 
「……アッ」
 ゴボッと変な音を立てながら、目の前の男が呻いた。
 
 
 大バサミは、部長の横っ腹にめり込んでいた。
 薄笑いを浮かべていた目が見開かれて、僕を凝視している。
 
「そんな目で……アンタが…僕を追い込んだろッ!」
 許せない…許せない……!
 汚らわしい言葉で、克晴を陵辱するのだけは、許せなかった。
「ぎゃッ……」
 ハサミを引き抜いて、また刺した。
 何かが、顔にまで飛んできた。世界が紅に染まって行く。
 
「雅義、やめるんだ!!」
 腕を掴まれた。
「───先輩……!」
「もう、やめろッ!」
 恐い顔で、怒鳴りつけられた。
 
 ………先輩……
 信用を……心配させちゃ……頑張ったのに……
 ───何やってんだ僕。
 血だらけの手、スーツ……見下ろして、愕然とした。
 見られた。
 ────こんなとこ見られた!!
 
「アッ! おい、雅義ッ……!!」
 僕は先輩を突き飛ばして、逃げた。
 
 
 
 ────終わりだ!
 
 
 
 止まなかった怒りが、地獄のどん底に突き落とされたような絶望に、すり替わった。
 そんな…そんな……!!
 僕が自分の手で、壊してしまった。
 取り戻せない……引き返せない……!
 紅い涙が、頬を流れる。拭っても拭っても、なま温かくて、生臭い。
 
 
 
 
 闇雲に駐車場まで走った。
 3日前の泣きながら運転したのとは、180度違う。あの時はまだ、被害者だったんだ。
 
 ハンドルが血で滑る。握り締めると、怒りが戻ってきた。
「………クソッ!」
 部長が許せなかった。土足で僕たちの間に、入ろうとした。
 我欲だけで、総てを手に入れようなんて……
 
 先輩の怒鳴り声も、耳から離れない。胸に釘を刺したみたいに、痛みが走る。
 ……ああぁッ…! 堪らず頭を振っていた。
 ────克晴…克晴……!!
 怒りも哀しみも不安も、全部振り切るように、アクセルを踏んだ。
 
 
「────アッ!」
 マンションの駐車場に入る時、また金髪ゴロツキ達の影が見えた。
 ………見られた……こんな姿……!
 幾重にも重なる、恐怖。
 ────どれだけ、追いつめられるんだ。
 
 
 
 滑る手で鍵を取りだして、ドアを開けた。
 早く顔が見たい。
 抱き締めたい。
 でないと、窒息してしまう。本当に、おかしくなってしまう!
 リビングに居るその顔を見て、夢中で抱きついた。
 
 ………克晴。
 触れている腕から、胸から、エネルギーを感じる。……克晴を感じる。
 逃げも慌てもしないで、腕の中にいてくれた。
 ……手放したくない。
 この想いだけは、どうしても───僕の命……
 
 
 
「克晴……僕に付いてきて」
 
 
 
「───────」
 目を瞠って、間近の僕を見つめる。
「……どこに…」
 
 
 呟いた言葉に、僕は。
 
「……ア…………アメリカ」
 


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