chapter7. crooked piece  歪んだ小片
                    -最後のピース-
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 7
 
「────────」
 
 待っている時間が、永遠のようだ。
 目線は、正面の路地から動かせない。
 ドクン…ドクン…と、脈が一分一秒を刻んでいく。
 愛しい顔、綺麗な肢体が、浮かんでは消える。
 消えたまま、戻ってこないなんて……そんなこと……
 助手席にあるはずの身体が、無い。あまりにもそれが、心許なくて。ぽっかり穴が空いたような、気持ち悪い感覚が沸いてきた。
 ここはあの家のかなり手前だから、往復に時間が掛かる。───でも、それにしたって、遅いんじゃないか?
 心臓がキリキリと痛み出した。
 
 逃げた…逃げた…………ニゲタ……?
 
 いや、それよりチェイスの一味に捕まっていたら……
 不安と恐怖で、今度こそ目眩を起こした。
「────ッ!」
 もう我慢できなくなって、運転席を飛び出したその時…!
 
「アッ!」
 
 遙か塀の影から、克晴の姿が現れた。小さなバッグを肩に掛けて、走ってくる。
 僕は慌てて車に戻った。発進させて克晴を拾う。
 青い顔はそのまま、走った分だけ上気させた頬で、滑り込んできた。
「…………お帰り」
 僕はそれを言うのが、やっとだった。
 ───はぁ……
 ハンドルを捌きながらも、同時に大きな溜息が出た。さっきのとは違う、安堵の吐息だ。
 左に克晴を感じて、体中が熱くなった。
 
 
 ……戻ってきた……無事で良かった……!
  逃げないで、戻ってきてくれた!!
 
 
 「……………」
 自分の手が震えていることに、初めて気が付いた。
 どれだけ不安だったか……強ばっていた身体が、感動しすぎてやっぱり動かない。
 
 何も言わない克晴は、ただ息を切らして。カバンを抱え込んで、座っている。
 背中を丸めて項垂れて、髪の毛で顔が見えない。
 その腕に、僕のプレートが光った。
「──────!」
 得も言われぬ高揚感が、沸き上がってきた。
 絶望と緊張で、僕の精神状態は度を超えていた。
 逃げなきゃ……逃げなきゃ……
 城を捨てて、日本を捨てて、先輩も会社も、なにもかも置き去りにして…。
 その極限に追いつめられた状態で、たった一つ……
 
 すべてを失くした僕に、克晴だけが残った。
 
 
 
 もう、何も要らない。
 グラディスと決着を付けて、奴らと徹底的に縁を切って。
 
 ………アメリカで、二人だけで暮らすんだ!
 
 
 
 
 
 
 渡米するチャンスを、伺いながら───僕らはラブホテルを渡り歩いて、身を隠した。
 いつ包囲されるか分からない恐怖が、一所に居させない。逃げる先々で、チェイスの影に脅かされた。明らかに日本人じゃないとわかるシルエットの男達。
「……先輩は?」
 気がかりで、すぐにそれだけは訊き出した。
「…………」
 俯いたまま、無言で首を振る。
 ……居なかったのか。
 かち合わなくて、本当に良かった。でも、その後にぼそりと呟いた克晴の言葉に、心臓がヒヤリとした。
「……俺の…机の中が、荒らされていた」
「────!」
 やっぱり、一度は帰ってた…!
 ………きっと、先輩は探したんだ。克晴から、何か手がかりはないかって。
 
 
 
 もう10日以上経っているのに、ニュースはあの事件を報道しない。愛車は乗り捨てて、中古車で移動していた。
 ……先輩は、警察に訴えてないんだろうか……部長は…? そんなことを考える暇も無いくらい、すぐに飛んでしまいたかったのに。
 チェイスの手下が、執拗に後を追ってくる。一人、二人…まちまちに姿を現しては仲間を呼ぶ。車に乗るときに何度か捕まりそうになって、振り切って逃げていた。
 空港で待機してる間だって、何があるか……。
 いつまでこんなことしてるんだと、非難の目を向ける克晴に、僕も焦れた。
 
『グラディス……君に会いに行く。克晴を連れて』
 
 僕らを見殺しにするはずがない。あいつだけが、チェイスを動かせる。
 そこに賭けて、携帯で告げた。
『アンタの弟のせいで、日本から出られない。……ヤツを、引き上げさせろ』
 余計な声は聞きたくなくて、一方的に通話を切った。
 
「───ハァ……」
 シートに背中をもたれて、深く息を付いた。緊張も疲れも、いよいよ限界で……
 今日は? 明日は? ………本当に、飛べるのか…向こうに渡れたって、無事とは限らない。
 グラディスと会えるのか。僕に飽きてくれるのだろうか……
 押し寄せて来る不安に震えながら、なんとか正気を保っていた。
 腕の中の温もりだけを、頼りに。
 とにかく今だ。
 今、誰にも捕まるわけにはいかない。
 ───克晴の髪、匂い……吐息。……僕の命。それだけが、未来への道しるべだった。
 
 
 僕はまた、分岐点を見失っていた。
 自分の愛を…克晴への愛を、真実だと信じ。
 暴力や年の差や、離れていた時間さえ、きっとやり直せる。
 一緒にいれば……解り合えれば、いつか解決するって。
 だって…その瞬間は、確かにあったから。
 その時を夢見て。……自分だけの夢にしがみついた。
 繰り返し、繰り返し───作っては崩れ去る、砂の城…あのネバーランドを、諦めきれなくて。
 そこの住人、克晴と僕。二人だけで、生きていきたい────
 
 
 そして、張りつめていた一本の糸が、思わぬ形で切れた。
 
 
 
 
「……アッ!」
 
 信号待ちの助手席で、急に短い叫び声が上がった。
「─────!?」
 驚いて横を見ると、克晴がいきなり上体を膝に突っ伏した。
 
「……何!? どうしたの!?」
 激しいショックを受けたように、体中を震わせている。
「……クッ……ゥウッ…」
 呻き声まで上げて、両腕で頭を抱え込んだ。
「……………!?」
 あまりに突然で、何が起こったかわからない。
 一瞬見えた横顔は悲しげで、今にも泣きそうに、歯を食いしばっていた。
「克晴!!」
「……ウッ……ゥ…」
 僕の呼びかけなんて、まるで聞こえないみたいに。突っ伏したまま、低く唸りながら、身悶えては髪をかき乱した。
 
 
 ──どうしちゃったの……何で急にこんな……!?
 
 
 走り出した車の中でそれっきり───克晴は、一言も喋らなくなってしまった。
「克晴! ………克晴ッ!!」
 どれだけ声を掛けても、抱きしめても。俯いた顔を上げようとは、しない。目を固く閉じて唇を引き結んで、首を横に振るだけだった。
 
 余りに尋常じゃないその様子に、どうして良いのか、途方に暮れた。
 ……こんなんじゃ、とても無理は出来ない。
 僕は克晴を休ませるための、決心をした。
 
 
「………着いたよ。ここで暫く、匿ってもらう」
 僕が日本に帰って来たとき、グラディスにまた捕まらないように……一時、身を隠した場所があった。
 
 
 
「神父さん……また、お世話になります」
 
 
 
 気の良いその人は、何も訊かずに笑顔で僕たちを、受け入れてくれた。
 


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