chapter7. crooked piece 歪んだ小片
-最後のピース-
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“チェイスがこっちに来る”
そう知った時から、僕の恐怖は始まった。
グラディスとなら、話し合える。
僕の言葉を聞くから、なんとかあしらえると思っていた。
でも……
チェイスには、自分の世界しかない。
アイツとは、会話が成り立たないんだ。本能のまま、暴力で欲望を手に入れようとする。
そして、唯一それでも手に入らないのが、……兄グラディスの心だった。
僕は克晴を隠すべく、頭を働かせたつもりだった。
住所がバレているあのマンションよりは……どこだっていいから、克晴を移動させなければ! ──
チェイスの手口はよく分かっていたから。
僕に何かする前に、克晴に危害を加えるだろう…その恐怖に怯えながらも。
───でも、もし隙を見て肝心の克晴に、逃げられてしまったら。
……そんなこと考えたバカな僕は……克晴の、チェイスに抵抗するための自由さえも、奪っていた。
拘束していなければ…パジャマぐらい、着させてあげていれば……!
後悔が、胸を引き裂く。
ごめんね……ごめんね……
傷ついた身体を抱き締めながら、僕はただそれを繰り返すしかなかった。
あの6年間の間、僕が恐れていたこと。……それは、克晴が他の男のモノに、なってやしないか。
だから捕まえて、確かめた。あんな酷い遣り方だったけど、余裕のない僕は手段を選ばなかった。
それなのに……僕のせいで、汚させてしまった───
「………………」
ぐったりと動かない、身体。
初めて抱き上げて抱えた時は、まだほんの子供だった。
小さくて、軽くて。どんなに抵抗したって、僕に敵うはずなどなかった。
───今は、こんなに育って…。
腕の中の質量感は、僕と同じだけある。
くるんでいたタオルケットを外すと、正体のない身体を、そっとベッドに下ろした。
「克晴……戻って来たよ…」
囁きながら、唇にキスをした。
ここも不安だけど、他に連れて行き場がない。
「……………」
顔に張り付つく、濡れた髪を梳いた。
……愛しい……。指が吸い付くように、離れない。
閉じると長い睫毛。こんな意識が無くても、形のいい眉はすっと吊り上がっている。
「─────」
横たわる艶めかしい全裸を眺めた。
均整のとれた身体は、何度見ても溜息が出る。青年に成り代わっていく、ギリギリの危うい色艶。少年の面影をどこか残して…。
しっかりした骨格と、しなやかな筋肉。すべらかな肌……そこに浮き出る両胸の花弁は、ヤラシすぎるだろう。
───自分が、どれだけ綺麗か……まったく自覚してないんだよなぁ。
まるでそんなこと、無頓着なんだ。着飾りもカッコつけもしていない克晴を見た時は、ちょっと驚いた。
擦れないで、育ってくれていた。そこがまた、愛おしくて……。
頬を撫でて、肩を滑って、胸の隆起を確かめる。
鍛え直して戻った腹筋は、見事だった。
「……よかった」
筋を指でなぞりながら、呟いてしまった。
僕の言うことを聞いてくれて、よかった。
僕自身が人相も変わるほど……体重は落ちて、筋力も思考も奪われた。閉じこめられて動けないっていうのは、そういう事なんだ。
あの苦痛は、克晴には与えたくなかった。
萎えているペニスを撫でてみた。ピクリともしない。
太股を膝までなぞってみても、なんの反応もない。
「………かつはる……」
僕の哀しみの人形。……今は、涙も流さない。
目も口も、閉じたまま。
動かないその顔は───恵君以外、何にも関心を持たない……克晴の心、そのものに見えた。
『克晴が大好き』
一生封印しておくしかない──そう思っていた、言葉。
言ったって、伝わらない。
信じてもらえない。
“それでもいい”なんて思えるほど、簡単じゃなかった……この想いは。
決定打を打たれるのを恐れた僕は、気持ちだけ押し付けて、それを口には出来なかった。
……それが、いけなかったなんて。
僕に呼応して、初めて内面を晒した克晴。
睨んでくる双眸は濡れて、張り上げた声は、泣き叫んでいた。
『なんで早く言わなかった!? ……今更、遅いんだよッ!』
「─── そんな─── そんなの…」
言っていたら、伝えていたら、僕の恋は確実に終わっていた。
……でもそしたら、新しく出直せていたかもしれない…?
……まったく想像もしてなかった、そんなこと!
「…………ッ!」
掻きむしられる、やるせない想いが、心臓を突く……息が止まるほど!
やっぱり在ったんだ。克晴との間に感じた、不文律───お互いが必要だって、思い合えたかも知れないのに。
克晴に、熱い雨が降る。止まらない、僕の後悔という涙。散々泣いてきたけど、こんな熱いのは初めてだった。
「黙って……黙って……!」
本当に“今更”なんだ。
6年という時間は、過ぎてしまった。
これ以上それを突き付けられたくなくて、跨ったまま口を塞いで、首を絞めてしまいそうになった。
手放せなかった想いは、今も変わらない。
“一緒に居たい。またあの頃の様に”その気持ちだけが、僕を突き動かす。
黙ろうとしない克晴に、憎しみさえ湧いた。でもそれは一瞬で、情欲にすり替わる。
『抵抗もダメだよ。……僕を受け入れて』
僕はいつもそうだ。
愛しいと思えば思うほど……独占は脅迫に、懇願は命令になる。
愛すれば愛するほど、苦しめてしまう───
あんな目に遭わせてしまったのに。最後はその身体を欲した。
せめて、嫌がらないで…! そう祈りながら、欲望をぶつけてしまった。
それなのに。
克晴は、僕に喋ってくれるようになった。
おはようやお休みなんて、言わないけど。色々知りたがるようになった。新調したパソコンで、判らないことは訊いてくれるんだ。
僕は……嬉しくて、嬉しくて。
「雅義、ここ……どうすんだ?」
そう言って僕に向けてくれる眼差し、言葉、その一つ一つを大事に大事に扱った。
チェイスの次の行動が怖くて、外出もできなかったけど。
会社に行く勇気が出た。
だって、克晴と一緒にいるには……僕の希望は、そこにしか無いんだ────
3日後、僕は久しぶりに出勤した。
「先輩! おはようございます」
先輩に心配させないように。ちゃんと報告して、怪しまれないように。
僕はそのためだけに、先輩にくっついて、草野球を応援していた。それを続けなきゃ。
「おはよう…」
「………?」
どうしたのかな。なんか元気がない。
僕が覗き込むと、先輩は疲れた顔で笑った。
「──雅義も早く、結婚しろ」
「……えッ!?」
いきなり、何でそうなるのか。
目を丸くして見返すと、先輩にしては珍しい、困ったような表情を作った。
「お前にも…子供が出来れば、もっと相談できることがあるんだがな」
「────!」
一瞬、克晴の事かと思った。
何か、感づかれた……?
余りに僕が何も言わないで、見つめるモンだから……
「雅義がそんな顔をして、心配することじゃない」
「……じゃあ?」
「……自分で手を掛けて育てなかった子を…どう扱っていいか、わからなくてな…」
…もしかして………恵君?
「何か、あったんですか?」
「……いや」
最後は怖い顔になって、背中を見せてしまった。
「おっす!」
立ち尽くす僕の頭を、いきなり後ろからボコンと白石が殴った。
「イッテ…!」
「ナニ入り口で、ぼーっとしてるんだ。このサボり魔!」
銜えタバコで、にやりと笑った。
「……お前が休めって言っといて、そりゃないだろ!」
第2会議室で倒れたとき、そう言ったくせに!
その後も何度か出社したけれど、こいつには会っていなかった。
「……なぁ白石」
そうだ。コイツの最後の、意味深な言葉……
自販機横の灰皿から戻ってきた男に訊いてみようと思ったとき、白石の方から切り出してきた。
「宮村、おまえさあ、……会社休んで、野球出てるよな?」
「……え?」
白石の差し込んだタイムカードのガシャンという音と、僕の間の抜けた声が一緒だった。
「いや。ちょっと良くないウワサ、聞いたから」
「……噂?」
「ああ…ここじゃ何だから、昼飯ん時言うわ。後でな!」
「ちょ…」
呼び止める間もなく、背中で片手を振り上げて、白石は行ってしまった。通路の向こうへ消えていく。
「…………」
ずしっと、何かが胃に溜まったような、嫌な気持ちになった。
その日は約束したにもかかわらず、白石に会えなかった。僕はいつも通り、所在のない惨めな一日を過ごした。
荒みそうな心は、克晴を抱き締めることで、浄化して───
“今日は何を、やるんですか”
毎日毎日……こんなこと、僕より何年も年下の後輩に訊かなきゃならない。
もの凄く、悔しかった。
でも、これを続けないと、ここには居れないんだ。今日の仕事を与えてもらうため、その日も憂鬱な気分で、エレベーターに乗った。
明確な所属部署を割り当てられていない僕は、上司と呼べる人もいない。
『とりあえず以前通りに来て、そこの誰かに何か訊いてくれ』
そう言われた通りに、してはいるけれど…。
こんな理不尽なこと、あっていい訳がない。また長谷川人事に、文句をつけに行くつもりでいた。
これは明らかに、社内で時々耳にするあれ…“首切り対策のイジメ”そのものだ。
……なんで僕が。
リストラされる歳じゃないし、今まで一度だって、決定的な落ち度なんて、無かったはずだ。
“全てが、克晴と一緒にいるために”
“先輩と一緒に、ここに居るんだ。僕が辞める理由なんかない!”
そう思うと、いつも怒りが勝つ。
会社がどういうつもりなのか、知らないけど───絶対に僕は、負けない!!
「あの……すみません。宮村さんには、仕事振るなって…」
「……え?」
挨拶もそこそこに、そんなことを言われて。いい加減、頭が真っ白になった。
なんで……
僕が決心するたび、もっともっと、貶められる。
「誰がそんなこと!?」
普段は声なんて荒げないけど、悲しい気持ちが怒りに変わった。
誰かが、僕をあざ笑う。
僕の努力を、踏みにじる。
「言えよ! 誰なんだ!?」
僕の迫力に気圧されて、ソイツが吐いた名前は……
「は…長谷川人事…ですッ!」
「白石ッ!」
食堂でやっとヤツを見つけて、駆け寄った。
「お前の言ってたウワサって、なんだ? 人事部長と、関係があるのか!?」
「……なんか、聞いたのか?」
ちょっと驚いたあと、ニヤリと笑いながら見上げてくる。
「……何も!」
ドスンと隣に座って、睨み付けた。
“それ以上は何も判らない”と、“ごめんなさい”を繰り返す男に、他は何も訊き出せなかった。
部長を捜したけど、どこにもいないし。
「先週末、飲み会があったの、知ってるよな?」
「ああ!」
僕が参加なんか出来るはずのない、先輩たちの部署のだ。
「そん時な、人事の長谷川も出てて、天野さんにモーション掛けたらしい」
「………は…?」
─── モーション? ……先輩に?
「まあ、そんでもって、こっぴどくフラれたんだと」
……モーションて……フラれたって………?
頭の中で、それだけが繰り返された。
「宮村さ、前っから天野さんと仲良かったろ?」
「……うん」
「試合がある度、参加してたし」
「そんなの、長谷川さんだって……」
─────!!
当時を思い出して、そんなふうに呼んでしまった。
あの人だって、参加してた。だから僕たちは、よく喋ってたし…少なくとも嫌われてるなんて、微塵も思ってなかった。
僕は先輩より9歳も下で、チームの中で一番若かった。長谷川さんとも7歳違う。それでも、仲は良かったんだ。
それこそメンバー内なら、誰とだって……だから……
───今だって。待遇の不審にこそ、怒りはあったけど……
「そんな……」
「この前、お前に言いかけたこと……人事がお前の悪口、言い振りまいてる」
「…………」
「出社しないくせに、野球には出てるって、かなり悪意を込めて零してたって」
……仕事がないんだ。
来たって、しょうがないだろ……。
休日に僕が何をしてようが、勝手じゃないか……
白石は煙草に火を付けると、深く吸い込んでから、溜息交じりに吐き出した。
「宮村…」
一口吸っただけで揉み消してしまい、横目で僕を見る。
「本当のこと……言えや」
「………なに?」
「お前、天野さんと、“そういう”関係なのか?」
──────!!
「そういう関係って!? なんだよ、それ…!」
あるはずがない!
僕が好きなのは、克晴なんだから。
血相を変えた僕に、白石は笑った。
「…だよなぁ。この間の朝の見てた様子じゃ、色気のカケラもなかった」
「……………」
「でも、あん頃は、確かに…ご執心って感じだったよな」
新しい一本に火を付けると、銜えたまま口の端を上げた。
コイツのクセだけど、笑ったつもりか知らないが、酷くニヒルな顔になる。
「あの頃?」
「オレに情報探らせて…天野さんに、近づいてったろ?」
……………ッ!
頭の中がグルグル回る。記憶が一気に、6年間を遡った。
それ以前の、僕と先輩、克晴……いろんな事が、駆け巡る。
───なに……長谷川さんも、先輩のこと……? だから……なのか?
「……白石ッ!」
気がついたら、目の前の胸ぐらを掴んでいた。
「お前───いつからそんなの! 内示が出た時、知っていたのか!?」
僕への悪意を…長谷川部長の思惑を────!
「まさか! 最近知ったんだよ、マジだぜ! んなこと知ったまま、送り出せるかっての!」
「─────ッ」
左遷されて、見放されて……本社の意向じゃなかった……
防げたのかもしれないなんて……!!
僕は白石から手を放すと、長谷川部長の所へ走った。