chapter7. crooked piece 歪んだ小片
-最後のピース-
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「部長……ッ!!」
室内には、他にも数人いた。
構わずにデスクに回り込んで、僕は腕を振り上げた。
きゃあ! と言う叫び声。次々と椅子を跳ねて立ち上がる、騒がしい気配。
「───長谷川さん……」
振り上げた拳をグッと堪えたまま、睨みつけた。
「……僕には、何が何だか……どういう事なんですか!?」
部長は座ったまま、薄いレンズの向こうで嗤った。
僕の拳にちらりと、目をやって。
「惜しかった。……君が一発でも殴っていたら、クビに出来たのに」
───────!!
「ほら、殴らないのか?」
人払いをした室内で、部長がまた目を細めた。腕を組んで、悠然と僕の前に立つ。
「────ッ」
僕は震える拳を脇腹に押し付けて、グッと握り込んだ。
自制心は、全て克晴に繋がっている。
………こんな事で、クビになってたまるか!
「……長谷川さん……なんで」
白石の情報を、100%信じた訳じゃなかった。
ただ、“仕事を振るな”ってやつと、あまりにタイミングが一致したから……。
怒りと混乱で、声が掠れる。口の中がカラカラだった。
「……本当…なんですか? ……先輩のこと…」
弧を描いている眼に合わせるように、部長の口の両端が吊り上がった。
「……馴れ馴れしいねぇ」
「………………?」
一瞬何のことか、判らなかった。
にたりと嗤った顔が、真っ直ぐに僕と向き合う。
「君のそれが、鬱陶しくてね。部署も違うのに、何が“先輩”だ」
「──────!!」
「お気楽な若造が、学生の延長のように。………天野さんがどれだけ、迷惑したと思っているのかね?」
────え…?
「め…迷惑なんか……」
「あれだけ付きまとえば、迷惑以外に何があると言うんだ」
何故判らない? と言いたげに、片眉を上げる。
ゆっくりと喋る語尾には、嘲笑が交じっていた。
「野球にかこつけては、取り入っていただろう。彼の人の良さに、付け込んで」
「……付け込んでなんか…。野球なら長谷川さんだって、出ていたじゃないですか!」
まるっきり悪人扱いみたいで、腹が立った。僕の話を、してるんじゃないのに。
……それに、迷惑って…
先輩がそんなこと、思っているはずがない。それは僕の中では、絶対だった。
───なに言ってんだ、この人!
「あの頃は、みんなで仲良かったですよね!? 円陣組んだり、肩叩いたり」
そのくらい、当たり前だった。
「私はしていない」
「……………!」
「君ほどの、厚かましい振る舞いはね」
能面の女面のように、貼り付いた微笑み。その眼鏡の奧に、異様な光が煌めく。
たいした身長差じゃないのに、押し潰されそうな重圧を感じた。
「余りの遠慮の無さに、呆れたよ。その腕をもぎ落としてやろうかと、思うくらいに」
「………………!!」
もぎ落とすって……
尋常じゃない言い方に、ゾッとした。
眼光に垣間見えるのは……憎悪。
静かに喋っているけれど、発しているのは怒りだ。
「僕が先輩に触って、まとわりついて…それが長谷川さんに、どう……」
それにムカついてたってんなら………それって、嫉妬だろ……?
「私じゃない。───天野さんへの迷惑を、懸念している」
一瞬、鋭い電気のようなものが走った。
ピりッと、空気が音を立てる。
「……………」
先輩のせいにしてるけど、違う……。
話しをすり替えながら、自分の事を言ってるんだ。
───長谷川さんは……本当に、先輩のこと───
当時の楽しそうだった顔を、思い出す。
こんな冷たい顔をするようになったのは、いつからだったか……。
でも…だからって……
「───だからって、そんな………それに、僕と先輩は…そんなんじゃ……」
真っ白になりそうだった。
気力を振り絞って、睨み返す。
「こんな事、私情で行使するなんて!」
「───こんなことって?」
「……え?」
一瞬見せた青白い炎は、すぐに消えた。
細い銀縁の奧が、また下弦の月を作り出す。
「何を言っているんだ? だいたい君は、なぜ私を殴ろうとしたのかね」
「─────」
腕を組み直して、斜めに僕を見下げてくる。
「な……なに言ってるんですか…長谷川さんこそ! そんな理由でヒトを動かしておいて…」
その嘲る表情に、愕然としてしまった。
「長谷川さんも、先輩が好きだったって、ことでしょ…それって……」
「誰が、そんなことを言った?」
───はっ!?
「私は、一言も言っていない」
「─────!!」
何言ってんだ、この人!
どう聞いたって、今のは───
「誰がって…今……それが理由で、僕を移動させたんじゃないですか!?」
食ってかかった僕に、返ってきた声はあまりにも、冷たかった。
「今度は、名誉毀損というところか。……私が、何をしたと言うのか」
「…………………」
「その“私情”と“移動”とやらの証拠は? 今ここで、証明してみたまえ」
────────!!
そのいやらしさに、吐き気すら覚えた。
怒りが湧くのに、矛先が届かない。
目の前に敵がいるのに、ソイツは鉄壁の鎧で、逃げもしない。
「ほら、どうなんだ?」
斜めに構えながら、顔だけ寄せてきた。
「言ってみろ」
凄みながらも、楽しんでいるように……
「酷い……僕がどれだけ我慢してると……」
悔しすぎて、言葉が続かない。
証拠とか、そんな話しじゃないだろ、問題は。
本当の事を知りたかったんだ。想像もしてなかった、僕への悪意の正体───
「言い掛かりも不愉快だが。……当時、その非常識さには、目に余る物があったね」
部長が、苦々しく眉を寄せた。
「天野さんの負担も考えず……平日も夜も、お構い無しに自宅まで上がり込んでッ」
言いながら興奮したように、腕組みを解いた。
眼鏡を指先で押し上げて、鼻から長い息を吐き出している。
「だから、それは…!」
……………え…?
睨み付けながら、ちょっと違和感を覚えた。
「………それ、……いつ頃のこと、言ってるんですか…?」
確かに入社当時は、先輩に取り入ろうとしていた。
僕のこと好きになってくれたら。そんな不純な動機だけで、付きまとった。
でも……
長谷川さんとかなり親しくなった頃なんて、僕はもう……
「お前に辞令を出す……1年前だ。度を超えて、あの人に接触しただろう!?」
「──────!!」
部長はとうとう激昂したように、語尾を荒げた。
でも僕には、最後の方なんて聞こえてなかった。
あの1年前…って……。
克晴が“私立の中学には行かない”っていうわがままを、通したんだ。
公立中学に上がった克晴の、頑固さに理解が出来ないと先輩がぼやいていて……。
僕は悩みを聞くフリをして、あの家に益々入り込んだ。
克晴に似てる……そう思って先輩を眺めるのが、楽しかった。
克晴にのめり込むほど、その気持ちを誤魔化したくて、先輩に引っ付いて回って………
「……そんな」
そう言えば克晴も、僕が先輩のこと好きだって、何度も……
────そんな……
「……ちが…」
絞り出した声は、部長には届かなかった。
打ちのめされた僕を、尚も叩く。
「君がいなくなって、清々していたのに」
「……………」
「性懲りもなく、戻ってきてから……同じ事を、繰り返している」
腹に据えかねたような、忌々しい眼。
見下げてくるその視線に、僕の心もまた震えた。
───だからって………
「だからって……そんなことして…いい訳ないだろ!?」
6年だぞ……
ヒトひとりの一生を、なんだと思ってるんだ!! それなのに、この態度と言いぐさは……
惨めな日々が、悔しさを煽る。腹の底のマグマが脹れあがった。
「──────ッ」
………くッ!!
拳を振り上げそうになって、僕の中のもう一人が、それをグッと抑えた。
一筋の光が、僕を狂わせないで、いさせる。
克晴が僕を見る。
僕に話しかける。
───あの空間を、守らなければ……!
太腿に爪を立てて、憤りを抑えた。