chapter7. crooked piece 歪んだ小片
-最後のピース-
1. 2. 3. 4. 5. 6. 7.
6
「………アメリカ…?」
オウム返しのように無感情な声で、それは返って来た。
“どこ”といきなり訊かれて、僕は咄嗟にそう答えていた。
もう会社にいられない。ここには、いられない。克晴と引き剥がされて……
犯罪者になるのが、怖いんじゃない。そんなのは今更だ。
全てが明るみに出て、引き離されるのが嫌なんだ。
「……そう。もう日本にはいられない。ここには、居られない!」
抱きしめていた腕に力を込めて、腹の底から叫んだ。
「ちょ……待てよ!」
やっと意味が判ったように、克晴が激しく反発した。
「何があったのか、知らねぇけど……」
僕の格好をもう一度見て、息を呑んだ。
「俺が…付き合わされる必要は、無い……離せよッ!」
力の限りに腕を振り解いて、ソファーの向こう側に回り込んだ。
全身で拒否する。顔も声も、立ち位置さえ。その姿を見て、僕の声も震えた。
……逃げないで……逃がしたくない。
「……なに…言ってるの…克晴……」
───すべてが、君と居るためなのに。
「ダメだよ。……必要なんだ……聞いて…かつはる」
ゆっくり言いながら、一歩、近づいた。
「…………?」
恐ろしげに青ざめて、じっと僕を見る。
「僕ね……上司を、刺して来た」
「……はッ!?」
「だって…全部…総てがアイツのせいだったんだ。アメリカ行きも…6年間の放置も」
「────」
ソファーを縦に挟んで、見つめ合った。
「僕は、許せなかった。…君と……ずっと居たかったのに。大切な時間を、無駄にされたこと……」
「………………」
「その上、まだ君を奪おうとした……我慢したんだ……ずっと」
ずっと……
ずっとずっと、克晴のためだけに、生きてきた。
「命を懸けて……君だけ、愛した…」
「……俺が…知るか…」
真っ青になりながらも、搾り出すように克晴が言う。
「どこにでも、逃げりゃいい……でも、俺を巻き込むなよッ!」
ソファーにしがみつきながら、牽制する。
それ以上近づくなと、睨み付けてくる。
「まだ、そんなこと……」
胸が掴まれるみたいに、痛い。
恐ろしいモノを見る目。険しく眉を吊り上げて、ますます全身で僕を拒否する。
「無理だよ。さっきもチェイスの手下を見た」
「……!!」
「あいつらを何とかするには、グラディスと直接掛け合うしかないんだ」
そう……僕は決意を固めていたんだ。
部長とこんな事件を起こさなくても……いつかチェイスを何とかしなければ。そのためには、グラディスに会うしかないと。
「……だから? だから何だよ。俺が付き合う必要なんか、無いだろ!?」
「………………」
僕が思わず笑ったのを……気付かれただろうか。
「チェイスってヤツはね、ターゲットを苦しめるためには、何だってやるんだ」
「……?」
怒りで興奮していた顔が、不安げに歪んだ。
「克晴の弱みって……なに?」
「……………」
不可解という表情で、僕を凝視する。
「チェイスは今まで、ドールとしての君しか知らなかった。……君を傷つければ、僕がショックを受ける。僕の人形だ…」
「……………」
「でも戦法を変えて、克晴自身にショックを受けさせて、君を揺さぶったら?」
「…ッ! ……どういう……」
「君は心底、僕を憎むだろう。……二度と僕を許さない。そして僕は…生きていけないほどの地獄に落ちる……それこそがヤツの、思うツボだったら」
探るように聞いていた克晴の顔色が、サーッと真っ白になっていった。
「……まさか……恵…?」
「─────」
僕はその目を見つめながら、無言で頷いた。
「……このまま放っておいたら、確実に恵君にまで……手が伸びる」
僕は意識的に、克晴を脅していた。
……この言葉は、決定的だったはずだ。事実、そうなっていくだろう。
僕に付いて来るしかないんだ。一緒に行くんだ、そう決心するしかないんだって。
克晴は唇まで色を失って、首を横に振った。
「───そんな……」
「グラディスの執着は、僕だ。そしてチェイスを止められるのは……彼しかいない」
これも本当だ。
───その時が来たんだ。
「直接会って、話を付けに行く。君も一緒に…そうしてこそ、ヤツをアメリカに戻せる」
「─────」
「克晴だけ残ったら、まず君にちょっかいを出すために、どんな飛び火があるか分からないよ」
本当にアイツは……何をするかわからない。危険すぎる。
見え透いたウソみたいだけど、この身体が覚えている。脅える心がそう言わせた。
「……適当なことを…」
搾り出してきた声は、カラカラだった。
───克晴……
さっきとは違う痛みが、胸を締め付ける。
こんな血相を変えた克晴は、初めてだった。
どんな時だって……自分がどんな事されたって、こんな顔はしなかったのに……。
胸がチリチリと妬けていく。
同じなんだ……僕自身どうなっても、克晴を想えば耐えられた。
でも克晴の体に危険が及ぶと思った瞬間、恐怖が心の底まで届いた。
……目の前の顔も同じだ。恵君を心配した途端、取り乱した。
「──────」
この胸の痛みは、覚えがある。
この期に及んで、僕は恵君に嫉妬していた。
だめだ…手放さない。
「さっき、こんな格好をヤツの手下に見られた」
「…………」
それが何だという目で、睨み付けてくる。
僕はソファーの背もたれの端を血まみれの両手で掴んで、身体を乗り出した。
出来る限り克晴に、顔を近づける。
「もう事件を嗅ぎ付けているだろう…。こういうのを利用するのが上手いんだ。畳みかけようと、何か仕掛けてくる」
「──────」
苦しげに、大好きな顔が歪んでいく。
鋭く睨み付けてくる眼の奥に、迷いの光が揺らめき始めた。
奥歯をぐっと噛み締めるように顎を引いて、ソファーの反対側の端を握り締める。
「……俺の家を…ヤツらは、知っているのか?」
「……それは…」
僕にもわからない。でもそんなこと、もう問題じゃないんだ。
「二人でグラディスに会いに行くなら、それこそ会わせまいとするだろう。やっきになって付いてくるよ」
「──────」
この時の克晴の眼を……僕は一生忘れられない。
気丈に吊り上げた眼の奥に、悲しげな光を湛えて……泣き出すかと思った。
“何で言わなかった”と声を荒げた、あの晩のように。
───でも、もっと。
もっともっと深い悲しみに捕まって……
その見開かれた双眸は、涙を零すことさえできないでいた。
「……………」
「…わかってくれた?」
項垂れた克晴に、そっと近寄った。
「…………」
何も言わない。
肩に腕を回しても、動かない。
顔を胸に抱え込んで、もう一度抱きしめた。
……ごめんね。
こんなことになって。こんな顔をさせてしまって。
……でも。
それでも、一緒にいたい。
この存在を失ったら……僕は本当に、生きていけない……
「パスポート、あったよね?」
高校時代に、取っているはずだった。
修学旅行が海外で、「どうせならと10年で作らせたのに、克晴は行かなかった」って、先輩が話してくれたのを、覚えてる。
今なら、わかる。友達を切り捨ててまで、恵君と一緒に居たかったんだって。
「取りに行くよ。君の家に」
「───!」
硬直していた身体が、はっとして、顔を上げた。
半年以上……。
ここに無理やり連れてきて、閉じ込めて。
帰りたかった家に、こんな形で戻ることになるなんてね。
僕も泣きそうな顔をしてるだろう。
やっと築き上げた聖域だったのに……。僕たち二人きり、今度こそ解り合えると思っていたのに。
身の回りの用意なんて、している余裕は無い。とにかく、ここから逃げるんだ。
説得している間も、そればかり思っていた。
────早く身を隠さなければ。
血で汚れた服だけは着替えて、二人の城を抜け出した。
目的地とは反対の方向へ、ハンドルを切る。大回りをしながら、何度も右折を繰り返す。
僕のセンサーは、バックミラーに張り付いていた。
「……尾行はない。家に向うよ」
「…………」
助手席で、息を呑む気配。
以前はここに座らせたら、もう逃がしたくなくて……。僕はどれだけ卑怯な手を使って、この身体を拘束したことか。
今克晴が閉めているシートベルトに、ロックはしていない。
「ここでいい、止めろ! 降りて走る」
克晴の声に、家からまだかなり遠い位置で、急停車した。
「この車で、家の前に着けて欲しくない」
前をまっすぐ向いたまま、フロントガラスの先を睨み付けている。
「…………」
僕としては、克晴の姿が外に出ている時間が長い方が、不安だった。
でも、僕のせいで家を突き止められてしまったら……その恐怖もある。
脅した手前、否定はできないし───
「克晴……これだけは気を付けて」
路肩に車を寄せながら、僕も前だけ見ていた。
「……部長を刺した所を、先輩に見られた」
「えッ!?」
「君が心配で、家に戻っているかもしれない。……先輩には見つからないで」
「─────」
「あと、もしヤツらの姿があったら、無理しないで。すぐに戻ってくるんだ…いいね?」
最後の言葉は、克晴と向き合って。
僕の祈りを込めて……とにかく心配で、必死の想いだった。
手を掴んでその中に鍵を握らせた。
「誰もいないといいけど…」
そのまま揺さぶって、もう一度言う。
「いいね、絶対先輩に見つからないで! わかるよね? 引き止められたらどうなるか……」
「─────」
青い顔をそのまま。
僕をじっと見てから、滑るように助手席から降りて、静かにドアを閉めた。
頷きもしない。Yesとも返事をしてくれない。
走っていく。
いきなり逃げたあの時みたいに、背中を見せて。
長い脚。サラサラの髪がなびく。制服の時より少しまた育ったシルエットが、小さくなっていく。
「………………」
真っ直ぐの路地の、遙か向こうの突き当たりまで。止まらない背中は、塀を曲がって完全に消えた。
───戻って……来ないかもしれない……
見えなくなった途端、克晴との糸が切れたような、もの凄い不安感。
急に、その恐怖に駆られた。
ハンドルにしがみつくようにして、消えた方向から目が離せない。
───あれだけ脅したって……先輩の顔を見たら?
───そうだ……部屋に、恵君が居たら?
僕なんか一瞬にして意識から消え去って、恵君と逃げるかもしれない。
鍵まで渡してしまった。
克晴の私物一切を、僕は奪っていた。あの時着ていた服や下着、靴下まで。そしてカバン…財布…そんな物すべてが、もう克晴には必要なかったのだから。
「……ダメだ」
唇を知らずに噛みしめていた。
「駄目だよ…克晴……君は……僕とでなければ、自由にはなれないんだ……」
声に出して、自分に言い聞かせて。
……そうしていないと、おかしくなりそうだ。
「そうさ……その手足には、まだ───僕の拘束具が…光ってるんだ」
一糸まとわぬ生まれたままの姿に戻して、僕の証だけを与えた。
そう、僕だけのという証…。
忘れないで、克晴。君は決して自由じゃない。
手放したんじゃないってことを。
本当は僕が、取りに行きたかった。……泥棒まがいのことをしてでも。
克晴はシートでロックして、僕のフィールドからは絶対に出したくなかった。
……でも、僕じゃ。……もし探すのに手間取って、先輩に見つかったら。
迅速に事を運ぶには、やはり克晴が行くしかないと思ったんだ。
「……はぁッ」
緊張しすぎて、窒息しそうだ。
苦しくなって、大きな溜息をついていた。
硬直したように、ハンドルを掴んだまま動けない。その手には、落とせなかった乾いた血がこびりついている。
『お前みたいな事をし続けて、手に入る訳がないんだ!!』
長谷川部長にそう叫んだ自分の声が、耳の奥に蘇った。
───先輩の愛も、克晴も!
自分のためだけに、邪魔な人間を排除して、手に入れようとしたアイツ。
卑劣で、傲慢で……自分には克晴が“懐く”と、嗤った。
「……………ッ」
突っ伏しそうな目眩を覚える。グッとこらえて、前を見続けた。
心の隅に追いやっていた、考えないようにしていた事が頭をもたげる。
わかってる。
僕だって、部長と変わりないってこと。
卑怯な手で、克晴を捕まえて。……自分のモノにした。部長を責める資格なんて、僕が一番なかったのに───
「かつはる……早く……」
それでも、こんなになってまで……手放せない。
何故こんなにまで───あの頑なな瞳が、僕を虜にする。
僕を見ない、真っ黒の瞳。見つめ合うときは、眉を吊り上げて睨み付けて…ときどき優しい光を灯すんだ。そんな時、胸が熱くなる。
むちゃくちゃ嬉しくなる。大好き……大好き克晴……
抱えたハンドルが、腕の中で動かない克晴のぬくもりを伝えてきそうな気がした。