chapter12. smile meaningfully-それぞれの居場所-
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1
部屋を出る時、壁のタペストリーが目に入った。
真っ赤な旗……天井から床まで、かなり大きい。空にかざせば、鮮やかに翻るであろう薄い布は、シレンのブラウスにも似ていた。
ヒラヒラと襟や裾が、風が吹くように揺れる。
「…………」
“ ボクたちと、ファミリーになろう ”
……シレンは……どうして、そんなことが言えるんだ………
二人同時に、愛せばいい?
メイジャーの愛し方なんて、…俺にはできない。
体を動かすならと、昼を過ぎてから、甲板に出直した。
俺ががむしゃらに走り上がって、飛び出した出口───
そこは船体の後部に位置する、機関室横の扉だった。
通常の、唯一の出入り口。
広い甲板に建造物は、この船橋楼と、前方に小型艇を吊すクレーンしか設置されていない。他に大きな物と言えば、普段クレーンの足下に置いてある小型艇だけだ。
平らに続くデッキはに、等間隔に大きな鉄板が蓋をするように埋められている。船首から船尾まで、ニ十メートルはあった。
「ここを一日中デッキブラシで磨いてりゃ、嫌でも力が付くぜ」
実践している海の男が、その筋肉を見せつけて笑う。
「船員総出で、大事にしている船だ。なにせ、ヘタにドッグ入り出来ねぇからな」
ドアの縁を軽く叩いて、横の機関室を眺め上げた。
「……………」
小さな操縦室を囲う灰色の壁。デッキも一面グレーで、重々しい。
───大海に停泊し続ける、偽装船……
接岸するのは燃料補給の時だけだと、メイジャーが言っていた。
「ボクは、“武術を”と言ったのです。カルヴィン」
先にデッキへ出ていたシレンが、髪を掻き上げながら冷たい視線を寄越した。
「克晴に、掃除などさせませんよ」
「…おやおや、二人目のお姫様か」
大きな身振りで肩を竦めて、日焼けした顔が俺をチラリと見下ろす。
「Shr, Our princess!」
左右の手の平を、胸まで上げて。逞しいガードマンは、シレンに“降参”の様なポーズを取った。
二人の軽口を聞きながら、俺も甲板に降りた。
明るい海原は、冬の日差しを吸い込むように静かだった。風が無いせいか、シャツとセーターだけでも、そんなに寒くはない。
夜とは違う、海の顔……恐怖した波の音も、今は穏やかに聞こえる。
「──────」
一歩一歩、硬い鉄板を足の裏に感じながら、踏みしめて歩いた。
積み荷用のハッチだと聞いた、途方もなく大きい鉄蓋の段差を、片足ずつ確かめながら。
────この下に、倉庫と居住空間があるんだ。
……当たり前かも知れないけれど。
小型船と言えど、20人もの大男達が常駐するには、ある程度の空間は必要だ。
───でも…
俺にはこの天上世界が、広いのか…これだけしかない、小さな世界なのか……
どう捉えていいのか、まだ判らない。
「……………」
中央まで歩いて、左舷の手摺りへ寄った。
低い鉄柵は、腰までしかない。たくさんの杭とロープの束などで、デッキの周囲は、ゴタゴタとしていた。
足場に気を付けながら見下ろすと、船体前方の壁面に早朝メイジャー達が降りていった梯子が、海面まで伸びている。
『満載喫水線というのが、ある』
初めて下の海を覗いたとき、メイジャーから教えられた。
体を手摺りの外へ乗り出させて、ボディにペイントしてある、記号部分を指さした。
『下の方に、“W”と書いてあるのが、見えるだろう』
円と線とアルファベットが、海面すれすれの場所で見え隠れしている。
定規のメモリを、縦に書いたような線の横に、文字も縦に並んでいる。波の打ち寄せるラインより少し上に、それはあった。
『今は冬だから、そこが基準だ。これより船が沈んでいたら、積載オーバーになる』
『…………』
『オレの船は重油を積んでいるが、隠し倉庫の分が軽すぎる。反対にここまで沈めなければ、いけない時がある』
『────』
そんなことを、俺に教えてしまっていいのか。
見上げた顔を、撫でられた。
『色々と秘密がたっぷりだ。追々、教えてやる』
───まだ、帰れるつもりでいたから……
逃げることが出来たなら、まだ“恵に会える”かと、願わずにはいられなかった。
だから、そんな扱いが嫌で。ちゃんと聞く気にも、なれなかった。
───海面まで、足が竦むような高さではない……
でも、ここから降りたって……上がる陸など、それこそ──無い。
波がボディに打ち付けるのを、ぼんやりと眺めた。
風が出てきたのか、頬を切るような冷気が体を冷やしていく。
───いつもなら、すぐにメイジャーのコートの中に、くるまれているんだ……。
必要のない俺には、コートなど与えられていない。
捕らわれている悔しさと、守られている歯痒さが、交互に胸を走った。
それを誤魔化したくて、無意識に自分の腕で、体を抱き締めていた。
「お前、呆れるくらい喋らねぇな」
カルヴィンが横に来て、気抜けした声で笑った。
「…………」
……何を喋るって…。
返事に困って見上げると、日焼けでゴツゴツとした顔が、興味ありげに俺を見下ろしてきた。
「ちょっと、いいか?」
「────!」
急に手首を掴まれて、驚いた。
「何す……ッ」
「何もしねぇよ。コレを見たくてな」
抗う俺の力などモノともしないで、プレートを自分の目の高さまで、引き上げた。
「本当に重いな、こいつ」
「……………」
習慣のように睨み上げたまま、何も言えない。
「アンクレットは、倍くらい重いですよ」
巨体の後ろで、代わりにシレンが答えた。
「克晴がメイジャーに愛を誓ったら、……外すはずです」
「はぁん…、こんな物付けてりゃ、それだけで大した運動量だぜ」
吊した腕を、パンと反対の手で叩かれた。
「……ッ」
“筋トレを続けろ”と、オッサンに命令されて…この船に来てからは、そんなことしていないけれど。……筋肉は確かに、以前より付いている気がする。
「意外と、教え甲斐があるかもな」
白い歯を剥き出して笑う、日焼けした顔。俺もやっと、睨むのを止めた。
「カルヴィン。克晴に必要以上に触っては、いけませんよ」
シレンが悪戯っぽく笑って、くるりと背中を向けた。
船首の方へ、歩いていく。
「……………」
ボリュームのある赤毛が揺れる。
ブラウスの裾が、翻る。あの真っ赤なタペストリーを、思い出した。
「カルヴィン……」
「…なんだ?」
呼ばれたことに驚いたように、バンダナを巻いた頭が大きく揺れた。
「…メイジャーの寝室に掛けてある、タペストリーは…意味があるのか…?」
「ああ、あの旗は、シレンだ」
「……えっ?」
短すぎるその即答に、今度は俺が戸惑った。
「この船はボス・メイジャーの分身、その船を護る旗がシレンだ」
「……そう、ボクの役目」
足を止めた細い身体が、クレーンの前で振り返った。目を細めて、微笑んでいる。
───役目……?
意味深に笑うその眼に、惹き付けられる。
「歌姫って、ボスが時々言うだろ? シレンは、メイジャーが捕まえたセイレーンだ」
「……セイ…?」
聞き慣れない言葉に、左の巨体を見上げた。
「神話に出てくるセイレーン……美しい海の妖魔だ」
「────」
……妖魔……
いかにも海の男と言った、無骨な顔をしたカルヴィン。
筋骨隆々の体に、鼻柱の太い日焼け顔で……おおざっぱに前髪を纏めた黒いバンダナが、よく似合っている。
その口から、あまりにも世界の違う言葉が出てきたことに、驚いた。
「ふふ…メイジャーは、実はかなりのロマンティスト。そして自分の哲学を、持っている」
ブーツの踵を響かせて、シレンがゆっくりと戻ってきた。
「克晴は、知っている? 昔から海には、色々な伝説がある……」
歌うように、話し出した。
「………いや…」
「海賊、海軍が語り継いできた恐怖…逸話……。でもこれは、ギリシア神話」
いつもの、片足に重心を掛けた立ち方で。両肘を包むように、自分で腕を抱える。
「ボクの本名…“Siren”をメイジャーは気に入ってくれた。…それと歌声」
口ずさむようなそれは、シリーンと聴こえた。
「……歌声…」
「そう…海の魔物セイレーン……その美しい歌声で、船を引き寄せては、沈めると言う……」
「─────」
妖しい微笑み───また銀の光を帯びて、瞳が輝き出す。
「そのボクを自分のモノにして、船に置いておけば、悪さはしないだろう。……メイジャーは、そう考えている」
『この歌姫がいる限り、オレの船は安全だ』
……あれは、このことだったのか……。
愛されていると言うより、“必要とされている”……そんな自信が漲るような、力強い眼光で微笑む。
真っ白い顔に紅い髪と唇が映えて、怖いくらいに綺麗だった。
「…………ッ」
またその眼に飲み込まれそうな感覚に陥って、息を呑んだ。
かなり寒くなってきているのに。ブラウス一枚の細い体が、切れそうな冷気も感じないかのように、スラリと立ちつくす。
「それじゃ、始めるとするか」
カルヴィンがパンッと手を叩いて、空気が変わった。
「克晴、それ嵌めたままで…大丈夫だね?」
いつもの雰囲気に戻ったシレンが、少し心配そうな顔をした。
「……ああ」
顎の下に伝った冷や汗を拭った。もうこんな動作くらい、負荷にも感じなくなっている。
“武術”と言っても、カルヴィンが教えてくれたのは、ケンカ戦法だった。
「強くなりたいなら、勝負に勝て! 攻めて攻めて攻めまくって、勝て!」
「…………」
ボクシングスタイルのように、両拳で顔をガードした構えだ。
距離を取って向き合う形で、俺もポーズだけは真似していた。
「ファイトの時は、自分の弱さが敵になる。敵に勝つイコール、自分に勝つ!」
言いながら、一歩踏み出して左のジャブを繰り出してきた。
「それが、真の強さってヤツだ」
「──────」
寸止めで、当てはしなかった。
でも鼻先で引き返した拳から、風圧を受けて驚いた。
「フ…本当にいい目をしているな、お前」
「………?」
見返すと、ニヤリと笑って、また軽いジャブを続けて何発も打ってきた。
肩から先、腕だけ伸ばす打ち方だから、腰を入れた重いのとは違う。その分、スピードが早い。
「───ッ!」
驚いて、避けることも出来ない。いくら当ててこなくても、いきなりこんな状態は……
「カルヴィン! ……何をしてるんですか」
シレンも横から、非難の声を上げた。
「ちょいとした、テストだ。相手を倒すのに、パンチから逃げてちゃ勝てねえだろ」
「…………」
「克晴が、怖がって目を瞑るくらいなら、オレはこんなコト頼まれねぇって、思っていた」
ジャブを出しながら、近寄ってきた。口の端を上げて、笑い続けている。
「ここまでは、合格だ。後は攻めるだけだ、さあ、来てみろ!」
俺も拳を構えながら、無意識に同じ歩幅だけ下がっていた。
「逃げるな! かかって来い!」
「……ッ!」
いきなりの右ストレートに、後ろに転びそうなほど仰け反った。
勝手に始まっていた、無茶苦茶な“テスト”───俺はてっきり基本の型を、1から教えてもらえると思ってたのに……!
メイジャーは思考の先読みで、俺にモノを考えさせなかった。
カルヴィンも、有無を言わさぬこの連打で、同じ事をしてくる。ストップをかける余裕を、与えない。
「下がるじゃんねぇ、飛び込んでこい! 喰らっても、それ以上のモノを当てろ!」
………そんなこと、出来るわけがない。パンチ一つ、まともに打ったことがないんだ。
俺は優等生で通してきたから、殴り合いのケンカなど、したことがなかった。
「──────」
……いや、一回だけ怒りに任せて、殴ったことがある。
「どうした、克晴? お前の拳、見せてみろよ?」
「……ッ」
嫌な記憶に、気を取られた。
あの悪魔に、河原で犯られた───大学に入ってすぐだ。あれは酷かった。薬で動けなくさせて…白昼堂々の青姦。
『自分で言い訳、できるよね』と、汚した服を笑いやがった。
─── くそ……
いろんなことが有りすぎて、痛みも哀しみも、封じ込めてきた。
でも……俺の怒りの原点は、あそこだ……アイツなんだ……
「……クソッ!」
胃が熱くなる。
体中が震えるのを悔しさに変えて、拳を繰り出した。