chapter17. reveal the love -到達-
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もはや尋常じゃない色の眼を輝かせて、それを差し出してくる。
「オマエ、最高だったぜ…またヤってやるよ。オレがイイんだろ」
陶酔したような、相貌。
うっとりした目つきは、まるで俺の上に跨って腰を振っている、あの時のような……
「………ッ」
身体が思い出して、勝手に震えた。
ゾクリと疼く内蔵に、嫌悪と焦りが湧く。押し殺していた恐怖が、蘇ってしまう。
チェイスへの恐怖……薬への恐怖……抗えない、恐怖────
冷たい汗が、幾筋も背中を流れた。またあれに支配されるのは……嫌だ。
「──────」
膝がガクガク震え出すのを、必死に堪えて、チェイスを睨んだ。
炎が照らし出す影が、煙に映る。ゆらゆらと怪しげに揺らめくそれは、銀色の淫獣を、よけい大きく見せた。
『やられる前に、やれ。………でなけりゃ、負けだ』
『逃げてんじゃねぇッ! 負けた後、後悔する気か!?』
カルヴィンの声が、聞こえた気がした。
…………ッ!
心臓が何かに掴まれたように、痛んだ。俺の弱々しい勇気に、無数の針が刺さったような苦痛だった。
あの台詞の真の怖さを、俺は判っていなかった。
殺らなけりゃ、犯られる……その後、嘆くのか。
それは、目の前のこの勝負だけの事じゃない。
負けたら───今度こそ……後悔など追い付かない、深淵に嵌る。
嘆いたってなにしたって…やっと自由になったのに、俺の求める場所へは帰れない。
いつも悔しさや歯痒さは、後からだった。
拘束されるがまま、嘆きつつも流されて……そして最後は、コイツに犯されながら、海に沈むのか……。
「…………」
自嘲めいた笑いが、込み上げてきた。
恐怖からだったかもしれない。どっちにしたって、笑い話だ。
やっと判った気がした。
俺が避けてきた、“恐怖”という名の壁。
その時その時で姿を変えて、俺を拘束し、蹂躙して……それでも、抗っていたつもりだった。心は渡さないと、反抗して、傷つけられて。
オッサン、メイジャー、チェイス……
相手が替わるたびにソイツを憎んで、何で俺なんだと、ただ運命を恨んだ。
でも、違うだろ。
俺は─── その運命とは、向き合おうとしなかった。
一人で抵抗して…負けなければ終わると思っていた。抜け出せると思ってた、こんなことから。
俺が戦わなきゃ行けないのは、この繰り返す、抗えない運命。
越えなきゃ行けない“恐怖”は、チェイスじゃない、俺をどうしても引きずりこもうとする…この状況なんだ。
自分で切り開けなかった───俺の未来……俺自身で、打破しないと……!
「くそッ…!」
自棄のように踏み出して、俺はそれに挑んだ。
まぐれの一発など、もうありはしなかった。軽くいなされて、掴みかかってくるのを避けては、また拳を出した。
床に転がる何かを投げつけては、牽制して。隙があれば、懐に飛び込んだ。
負けない…負けないッ…!!
俺は────勝たなきゃいけないんだッ!!
さっきみたいに、真っ白なんかじゃない。怖じ気づいて、怯んだりもしない。
「ウオォ…、オオォォッ……!!」
強大な敵に勝つために───とことん真剣に、命懸けだった。
狭い通路で、幾度も殴り合っては離れて、また飛びかかる。
「……コイツッ」
チェイスの眼にも、怒りが差した。捕まらない俺に、苛ついたようだ。
「可愛がってやってりゃ…」
「…ハァッ、ハァッ…」
負けじと睨み上げると、眉を怒りに吊り上げたまま、片目だけ細めてきた。
「カツハル…オマエのその懐かねぇのが、ムカついていたけどよ……それがイイのかもなぁ…」
下卑た笑いで、唇を捲り上げる。
“それがいい”
俺が俺でいようとすればするほど、手に入れようとしてきた大人達……コイツも同じだ。
「……俺が煽るから、俺のせいだって…?」
どいつもこいつも……俺はそれに、憤慨するばかりだった。
“煽情するお前が悪い”だなんてふざけた言い掛かり、許せる筈がなかった。
───でも……
それが“俺”だと言うのなら─── それでも俺は…俺でいなきゃ、ダメなんだ。
「……だったら、しょうがないよな…」
俺も、ニヤリと笑って見せた。
睨み付けたまま、口の端を、片方だけ上げて。
───受け入れてやる……その勝手な、言い分。
それは俺の、皮肉な運命への冷笑だった。
「チェイス…お前こそ、手下達に逃げられて、船はボロボロにされて……」
「………」
「短いキャプテンごっこだったな! 手に入れた薬と、心中すればいいんだ!」
今度は、高笑いをしてやった。相応しくない地位を、無理やり手に入れた結果だ!
コイツは許さない…俺にも言いたいことは沢山あった。
激しくなる地響きと、轟音。噴き出す白煙と、立ち上る炎。メイジャーの船のままだったら、こんな事には絶対にならなかったはずだ。
カルヴィン達が毎日磨いて、大切に扱っていた。
『船員総出で、大事にしている船だ。なにせ、ヘタにドッグ入り出来ねぇからな』
そのクルー達を排除して、閉じこめて……
「暴力だけで、総てが手に入るかよ!」
俺だって感じた、皆のこの船への思い。それは、メイジャーへの忠心からだった。
「……ドールのくせに、コイツ…」
一瞬泣き顔のように眉を歪ませて、怒りで首まで赤くしていく。
「全部逃げていった! それが答えだろ……お前なんか、グラ…」
言い終わる前に、横っ面を殴られて、後ろに吹き飛んだ。
───ッツ…!
目が眩んだ。いつの間にか頭に血が上っていて、口が止まらなくなっていた。
「……くッ…」
脳が揺れたみたいに、クラクラする。それでも急いで起きあがって、後ろに下がった。
───まずい…!
再び血相を変えて掴みかかってくるのを、寸出でかわして、直ぐ横の階段室に飛び込んだ。
「ハァッ…、ゲホッ……」
煙を吸い込んでしまい、息苦しさで咽せた。───駄目だ…立て直さないと……。
目眩や咳を治めようと、深呼吸をして額を拭った。
チェイスも直ぐに追ってきて、小さな踊り場の壁の隅に、追い詰められた格好になってしまった。
「…ぶっ殺してやる……」
さっきまでの色情に狂った眼じゃない。殺気が湯気のように立ち上っている。
「…………」
……掴まれたら、今度こそ逃げられない。
巨体の真後ろには下り階段、右後ろには、登りの階段が伸びている。
駆け上るしかない…足は持つのか…? 横目で距離を測っていた時───
ドォオオオン……!
爆発音が再び、階段中に鳴り響いた。
激しい縦揺れに襲われて、熱風が階下から、黒煙と共に物凄い勢いで吹き上げて、吹き抜けていく。
パンッ! と頭上でガラスの割れる音。天井の蛍光灯が、破裂していた。
「……!」
白昼色が一瞬で、赤い暗闇に入れ替わる。降り注ぐガラスと熱風に、俺たちは腕を上げて、顔を庇った。
そして…
「………うあぁぁ!」
叫んだのは俺だった。
前屈みになって、俺から視線を反らしたチェイス。その巨体に、頭から体当たりをしていた。
「グッ…」
鈍い呻きと、目を瞠った驚きの顔。あの時のメイジャーのように、後ろに仰け反った体から手が伸びて、俺を掴もうとした。
その腕を振り払って後を追い、自分も数段駆け下りながら、とどめの一蹴り。
「ギャアアァ…ッ」
ごとんごとんと、肉塊が転がり落ちていく音が、断末魔の悲鳴と共に黒煙の中に消えていった。
「──────」
しがみついた手摺に助けられた。ずるりとその段に座り込む。
ガクガク全身が震えるのが、止まらない。ガラスの破片を浴びてしまった。視界が紅く染まっていく。
………終わったのか…?
奈落の底のような真っ黒い穴…階下を、睨み続けた。耳を澄まし続けた。
「…………」
煙で下までは見えない。何かが動く気配もない。
……やっつけた……チェイスを倒した。
じわじわと、心から染み出てくる勝利感。
ゆっくり立ち上がって、震え続ける両手を持ち上げて眺めた。
───俺は…運命に勝った……
自分の意志で、道を切り開いたんだ……
「は…ははっ……」
この船を下りるのも、ここから逃げるのも、助けられてじゃない…命令でもない。
俺の意志で、下りれるんだ。……帰るべき場所へ、戻るために……。
ひとしきり、歯の根の合わない顎で、俺は笑い続けた。
到底笑い声なんかじゃないそれは、体の震えが治まるまで、続いた。
再び轟音が船体中に響いて、俺はようやくそこから動いた。
力の入らない足を踏みしめて、よろよろと廊下に戻った。
そのまま階段を上がっていけば、甲板に出て、グラディスの船で逃げられる。それは、判っていたけれど……
何故か俺は、廊下を壁伝いに歩いていた。ベッド一つだけの……あの部屋、そこに向かって。
途中、何か動く気配を感じて、振り返った。
黒い影が居住区の方から階段室へ、入って行くのが見えた気がした。チェイスの手下かと、ギクリとしたけれど……どこか違う。
───メイジャーの、クルー?
……彼らでもない気がする。閉じ込められていたはずだけど…逃げれているのか。
辿り着いた部屋からは、白煙が吹き出していた。
もうもうと煙が充満している部屋の中心に、オッサンの体は転がったまま、そこにあった。
「…………」
近付いて、横に屈む。
俺を苦しめた、童顔で人の良さそうな顔など、見る影もない。
火傷と殴打で出血した皮膚はボコボコに膨れ、赤黒く乾いた血がこびり付いている。
「……雅義」
炎に染まった俺の視界の中で、それはもうぴくりとも動かないように見えた。
「─────」
……いや、微かに息をしている?
そこに転がしたまま、俺だけ船を下りるのは、気が引けたんだ。だから、何となく担ごうと、腕を持ち上げた時だった。意識のないまま、呻いた気がした。
……まだ、生きてる……
複雑な安堵のような感情が、胸に渦巻いた。
コイツを殺したかった。殺すなら、俺だった。放置していけば、確実に焼け死ぬ……のに。なにしてるんだ、俺。
「…………」
血と汗が、顎から垂れていく。
奥歯を噛み締めて、重いオッサンの体を起こして、腕を自分の肩に回した。
ボアのフードが邪魔だ。厚手のコートを脱がしてしまおうか、迷ったとき……
「それは、わたしがマサヨシに着せたものだ」
出入り口に、人影が立った。
白煙と黒煙と炎……利かない視界の中で、不意に姿を表したのは、銀色の麗人……
「グラディス……」
「マサヨシは、わたしが連れて行く」
輝く銀髪を靡かせて、プラチナに身を包んだ長身の男が、ゆっくりと近付いてきた。