chapter17. reveal the love -到達-
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7
「……うわ…!」
また海水が流れ込んできて、階下に押し流されそうになった。
俺はシレンの腕を肩に回して抱えながら、必死に階段の手摺りにしがみついて、頭から叩き付けてくる水圧に、耐えた。
間を置いては、何度も凄まじい勢いで襲ってくる。その度に、呼吸が出来なくなって、滑り落ちそうになっていた。
───クソッ…
シレンはもはや、意識が無い。
無理もないよな…ただでさえ、あんな衰弱していたのだから。
苦しそうに震えながら、浅い呼吸を繰り返しているのを確認しては、抱えなおしていた。
「……ウッ」
しかし今回は俺も、思わず呻いた。
余りにも海水が冷たくて、洪水が去った後、心臓を握り潰すような寒気に襲われた。全身が凍り付くようだ。
「───ハァッ…、ハァッ…」
肺も萎縮してしまい、深く息が出来ない。
おまけに細い鉄柵を握り込んだ手が、硬直して動かなくなってしまった。無理して指を開こうとすると、激痛が走った。
「…つッ!」
……さっきまで炎に炙られて、汗掻いてたってのに!
焦りで苛立つ。
浸水し始めたせいで、空気も本来の冷たさを取り戻し、濡れて肌に張り付いたシャツがまた、体温を奪っていった。
「───寒…」
ブルッと身震いが起きて、首や顔まで鳥肌が立った。自分ではどうしようもないほど、歯の根が合わなくて……ガチガチと顎が鳴っていた。
「…ハァ…行くぞ…」
俺は無理して、意識のないシレンに声を掛けた。
……早く…上へ上がるんだ。……やっと、逃げられるんだから……
とにかく上へ。その一念で、弱りそうな腕に力を込めた。
振動が激しくて、滑る階段に足を取られる。異常なほど角度のついた傾斜が、この船の沈み具合を表してるようで…
切迫感に煽られながらも、手を突いて一段一段、這うように上るしかなかった。
“シレンを守る”
そう思ったのは、メイジャーのためだった。
そして、シレンのため……
メイジャーの想いを、シレンが大事に受け止めて、自分を大切にして欲しかった。
二人の愛を…守りたかった。
───でも……
「……くッ、またか!」
ドドドッという、海水の雪崩れ込む轟音が、上から響いてくる。
今度こそ、駄目か───流されるか……!?
振動が恐怖となって、俺を襲う。
……ダメだ───弱気が一番ダメだ……力が出なくなるぞ!
俺は急いで胸に抱き合わせるようにシレンを納めると、また両腕で手摺りの鉄棒を掴んだ。顎を引き、なるべく端に寄って縮こまって。
泡立った白い塊が落ちて来た。
───ふッ……
踊り狂う龍の口に飲み込まれるように、バシャッと頭から、海水を被った。
「───ッ」
そのままの勢いで、激流は体ごと持っていこうとする。
───クゥ…ッ!
───流されたら、一巻の終わりだ……!
がむしゃらに細い鉄柵にしがみつき、水圧に耐えた。ひとしきり凌ぐまで、息が出来ない。
このキツイ攻撃に、何度も手摺りから手が離れそうになって、それでも踏ん張った。
シレンが流されそうになっては、必死に掴んで繋ぎ止めた。
離すかよッ……もう少しなんだ……!
ここまで来て、死なせるか……死んでたまるか!
繰り返しそう思ううちに、気が付くことがあった。
何よりも俺を支え続けたのは、もちろん恵という存在だ。
薬の言いなりにならなかったのは…今も帰りたいと願うのは、メグが居るから。
───でも、それだけじゃない。
“シレンを死なせないでくれ”
そう言った、あの言葉……あれを伝えるべきなのか、悩みながらも…そのお陰で、俺は自分を保てていた部分が、あったと思う。
───そうでなかったら…もっともっと、捨て鉢になっていたかもしれない。
ずっと、迷ってた……腹を立てていた…俺にそんなこと託した、メイジャーに。
でもそれは───“俺にも生きろ”って、ことだったんだ。
あの遺言は、シレンを護らせることによって、俺をも生かす……二重の願いだった。
メイジャー……アンタは、俺も、護ろうとしたんだな……
「ゴホ…ゴホッ」
海水が塩辛い。咽せては、喉の奥から咳き込んだ。
目にもしみて、痛い。流れ出す熱い液体と一緒に、腕で顔を拭った。
「……もう少しだ、シレン…」
グラディスの船に乗り込めば、全てが終わる。
助かるんだ……
波の暴れる音が、聞こえる。
赤い炎が、空高く登る煙に反射しているのが、四角く切り取られた空間の向こうに見えた。
その出口を目指して、俺たちは、やっと甲板に這い上がった。
「──────ハァ…」
……ハァッ、ハァッ…
短く切っては流れる白いモヤが、絶え間なく口から吐き出される。
外気は寒すぎて。
凍てつく潮風が、肺を凍らせ、肌を切り裂くようだ。
船体はすでに、後ろ半分近くが海面に沈んでいた。
船首を空に傾けながら、業火を噴き出して水没しようとしている。
打ち付ける波が、船橋楼の周囲を回り込んでは、海水を階下に送り込み、波頭が鉄板を這い上がって足下まで迫って来る。
「…………」
でも俺は、それどころじゃなく…
這い出たそこから数歩、左舷の手摺りに歩み寄った場所で、動けなくなっていた。
目に映った光景を、愕然と眺めて─────
真っ黒い空と、海。
堺のない闇が、無限に広がっている。
この船の燃える明かりだけが、周囲を照らす。
それすら届かない、遙か視線の先に……ゆらゆらと漂う白い灯火。
それがぽつんと、一つだけ見える。
待っていなかった……
「……はぁ……はぁ……」
シレンを支えたまま、呆然と立ちつくして。
暗闇にただ一点、揺れる灯り。
他に、何もない。
デッキの上に動く人影も、接舷していたグラディスの船も。
喧噪も……希望も………
「はぁ……はぁ……」
自分の荒い呼吸だけが、空しく響いて…心を締め付けた。
────間に合わなかった……
“10分”なんて無茶なリミット、間に合うのか。そんなのに懸けちゃ、いなかった。
……でも、もしかしたら。
船が待っているんじゃないか…
離れ始めても、飛び込んで泳いで行ける距離なら……なんとかなるんじゃないかって。そんな甘い期待は、していた。
「…………」
揺らめく灯火は小さすぎて、そこに停泊しているのか、遠ざかって行っているのか、判断が付かない。
……どっちにしたって…もう、遠すぎる。
張りつめていた力が、全身から抜けていった。
立っていられなくなって、その場に膝から崩れ落ちた。支えきれない腕が、シレンを鉄板に転がしてしまった。
ドサリと音を立てて、正体のない体が横たわり、広がった赤い髪に、波が打ち寄せた。
でも…それを抱き起こすことさえ、できない。
「……終わりだ……」
置き去りになった。
その圧倒的な絶望感に、呟いていた。
───バカな事を、したのか……
乗れるときに、あの船に乗ってしまえばよかったのか…?
らちもない後悔のような問答が、責めるように湧いてくる。
シレンを置いて、行けるはずなんか、なかった。
……でも、二人でこのまま死ぬんじゃ、何の意味があったんだ。
船体は、上下に浮き沈みを繰り返しながら、傾斜を激しくさせていく。
甲板には累々と死体が転がっていて。重力に耐えきれずに、ズルズルと海に落ちていくのもあった。
鉄板の下からは、まだ火山を予想させるような爆音が、立て続いている。
───もう、暴発するか沈没するか…
巻き込まれて死ぬのは……時間の問題だ。
“外に上がりさえ、すれば”
そう思って耐えてきた“死”への恐怖が、また俺に襲いかかってきた。
助かると思わせては、どん底に突き落として……
でもまだ、希望をちらつかせている。
完全に終わりには、させない。
「─────」
俺はまた、遠くに揺らぐ光を見つめた。
越えたい運命の壁……まだ俺に、試練をしかけてくると言うか。
究極の判断を、迫ってくる。
このまま、途方に暮れて、全てを終わらすのか……
やっと繋いだ命を、ここで終わらすのか……
寒さじゃない、じわりと湧いてくる緊張感で、心臓が音を立て始めた。
ドクン、ドクン、と、鼓動が強くなっていく。
頭じゃ、判ってる。
二択しかないんだ……他に、ないだろう?
でも───
船橋楼を飲み込もうと、波が暴れては打ち上げるのに、目をやった。
「──────」
極寒の海、星もない真っ暗闇。
今でさえ、こんな寒いんだ。海水を浴びるたびに、もう嫌だと思った。
遙か向こうに、灯り一つ。
……ゴールできるか、わからないのに……
決断するには、ちょとやそっとの勇気じゃ足りなくて……
覚悟を決めかねる緊張感が、ますます鼓動を高めていく。
「…………」
何かに救いを求めるように、俺は視線を逸らして、船首やクレーンの足場、そして膝元のシレンを見た。
意識の無いまま…苦しそうに、小さな唇から白い息を、忙しなく吐き出している。
カタカタと震えている細い指をした手を、そっと掬い上げた。
……まだ、生きてる…
身体を抱き寄せて、両腕で抱えた。
命の鼓動が、僅かながらも伝わってくる。
───まだ…生きてる……ここで諦めたら、俺が殺すことになる……
極寒の海だ。
浸かっただけで、それこそ凍死してしまうかもしれない。
無謀かもしれない…でも、このまま沈むより………マシだ。
俺はさっきと違う、力を込めた眼で、遠くに揺れる灯りを再度眺めた。
「─────」
離れて行ってる…?
……判らない
あのグラディスのことだ───停泊なんて、していないよな……
でも、まだ見える限り、行くしかない。
あれはまだ、希望の光なんだ。
「シレン…寒いけど、我慢しろ」
襟首に手をかけてボタンを外し、ブラウスとズボン、そしてブーツを脱がせた。
俺も、シャツとジーンズを脱いだ。
「……フッ」
寒風に全身を撫でられて、心臓がぎゅっと萎縮した。圧迫されて、肺から息が漏れる。
「……は…ヤバイほど寒いな」
傷ついた細い身体を、素肌を合わせて抱き締めた。
───微かな温もり…
「シレン…俺たち、帰るぞ……元の世界へ」
甲板に打ち付ける波の中に、足を入れた。
「クッ」
ビリビリッと、冷たさを通り越した痛みが、身体を走り抜けた。
───ハァッ…
絶望的に、寒い────
全身海に浸かって、思うことはそれだけだった。
頭が割れそうな頭痛。硬直して、開かない肺。
酸欠で苦しい……浅い呼吸を繰り返して、目眩を起こした。
「………」
真っ白になりそうな意識を、波飛沫に埋もれては見え隠れする、一点の光に向けた。
まだ見える……見えるから……行け、俺───!
挫けそうな気持ちを、必死に奮い立たせた。
行くなら、早くしなけりゃ。グラディスが言っていた。
船が海に沈む時、大渦が巻き起こるって……急がないと、それに巻き込まれてしまう。
冷静に…冷静に……
自分に言い聞かせて、なるべく深く息を吸い込んだ。
背負っていたシレンを、仰向けにして浮かせた。唇が紫に変色して、苦悶に歪んでいる。
「──────」
掛ける言葉も、もう思い付かない。
怖いくらいに美しく、微笑んで見せた人…その顔を見つめながら、俺は勇気を振り絞った。
───大丈夫だ……俺には、セイレーンが付いている……
水を飲んでしまわないように、顎を逆さから掬い上げるように手を掛けて、牽引するように引っ張って。
片腕で俺は、真っ黒い海の中へ、泳ぎだした。
メグ……
俺……今、帰るぞ……