chapter21. Same Time ~甦生~
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「フ…確かに───回収を怠りは、しなかった」
 
 碧味がかった銀眼が妖しく煌めいて、形のいい唇が、その両端を持ち上げた。
 
「………!」
 下からの睨み付けなどは、相手にもしない。
 己を見据える黒いライオンに、彫刻のように秀麗な白い顔も視線を合わせ、意味ありげな笑みを返している。
 しかしそれは、幻のように、一瞬で消えた。
 
「────」
 チラリと見せた、グラディスの微笑。
 克晴は圧倒されて、息を呑んだまま呼吸を止めていた。
 ───この妖艶な雰囲気と、張りつめるような緊張感には……覚えがある…。
 それは甲板で白と黒が対峙した時の、懐の探り合いの空気だった。
 
「弟のしでかしたことで“メイジャー”を見殺しにしたとあっては、今後の仕事に差し支える。敵を無駄に増やすのは、得策でない」
 表情を戻した冷ややかな視線に、対する黒い双牟も、眉ひとつ動かさない。
「…そんなところだろうな」
 
 
「だが───助かるとは…わたし自身、信じてはいなかった」
 
「……それで、俺の船と弟ごと纏めて、証拠隠滅か」
 
 ため息をつくように言葉を吐き出しながら、メイジャーは軽く首を振った。
「随分な、先読みだな」
 
 
「……船」
 ───生きていると判っていたなら、沈めることなんかなかったんだ。
 何発も銃弾を食らった体で、極寒の海へ落ちていって……相当な重傷だったはずだ。
 ……グラディスも、本当にメイジャーが助かるなんて、思っていなかったのか…。
『万が一のことがあったら、積み荷は返さなければならない』
 一瞬眉をひそめて返された言葉が、記憶に蘇った。
 ───あれは、このことだったんだ。
 ようやく納得いく思いで二人を見た克晴は、メイジャーの怪我が気がかりになった。
 不動の山のように、堂々たる立ち姿だが、右腕を三角帯で吊している。着衣の隙間からは、肩から胸にかけて包帯を巻いているのが見えていた。
 
 
 
「積み荷があれば…Black Leoならば、船などまた、調達できるだろう」
 グラディスは、放たれた嫌みなど気にもとめる様子もなく、腕を組み替えて、銀の髪をさらりと揺らした。
 
「…船や新薬など、どうでもいい」
 凄んで黒眼の奥を光らせたメイジャーの声は、いつになく真剣で、怒りを帯びていた。
「失った物は、そんなものじゃない」
 噛み潰すように、漏らした言葉───それは、カルヴィンや幹部達…己の少数精鋭部隊までもを一緒に、海に沈ませてしまった───命と引き替えにした代償は、船などではないということを、意味していた。
「克晴がシレンを救ってくれた…二人だけが、オレの手に帰ってきた」
 愛おしそうに大きな手が、克晴の頭を撫でる。
「………」
 “大きな存在を失った”と、メイジャーの残り香の中でひとり、泣き明かした。その記憶を蘇らせて、克晴は胸が痛くなった。
 
「……待てよ、生きてる可能性があるって、…少しでも考えたなら」
 克晴は、また心に引っかかるものを感じて、グラディスを見上げた。
「…なんでシレンも助けようと、しなかったんだ?」
 ───シレンも助けた方が、後のメイジャー受けはいいはずじゃないか…千里眼と言われるこの男が、なんでそれを? ─── そんな打算まで、浮かんでいた。
 
「愛人など…どちらか一人、居ればいいだろう」
 
「────!」
 睨み上げていた顔を真っ赤にして、克晴はブランケットを握りしめた。
 眉一つ動かさず、ちらりと銀の眼差しをよこしただけの端麗な顔は、人の心など持ち合わせてはいない。怒りを突きつけるたび、それを思い知らされるばかりだった。
「あ…愛人なんかじゃないッ! …それに」
 克晴の、散々感じていた屈辱と憤りが蘇り、瞬時に沸点に達した。まだ動かない体をよじって、喰って掛かろうとした途端、
「克晴…やめておけ。こいつに噛み付いても、柳に風だ」
 失笑まじりの声と掌で口を塞がれて、顔ごと厚みのある腰に押しつけるように、抱え込まれた。
「……!」
 悔しくて暴れた頭を、なお押さえつけられた時、メイジャーから微かに呻き声が聞こえた気がした。克晴は、エッと動きを止めて、山のような巨体を見上げた。
 苦しそうに眉を寄せた顔が、また手を広げてきて、今度は克晴の目を覆ってしまった。
 
「…まだお体に障ります。そろそろ、病室へ戻られた方がよいのでは」
 青年のどちらかの声が、心配そうに言うのが聞こえた。
「二度死にたいらしいからな…頑丈な男だ」
 
「────!」
 
 呆れたように言う流麗な言葉で、克晴は手のひらで覆われた視界の向こうを、見た気がした。
「シレンの様子を見てくる、お前は寝ていろ」
 覆いを外した男は、いつもの剛胆な顔に戻っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 起こしていた体を横たえ、克晴はようやく息をつく思いだった。
『貴方を助けに、再び海に飛び込んだのですよ』
 退室していく間際に、双子の一人…同じように見えて、幾分人間らしい表情が伺える右側の青年が、教えてくれた。
 そのせいで開いた傷を縫い直し、本当は今現在も歩くことさえ危険だということも。
 ───メイジャーは、俺のためにも、飛び込んだのか…
 “アイツは、シレンの方が大事だったようだな”…そう嗤ったチェイスの顔が思い出されて、克晴は知らずに失笑していた。
 
 
 天井から降りているブラインドの隙間からは、薄日が細く射し込み、オレンジ色のブランケットの右側に、ボーダーの影を長く伸ばしている。一日の終わりのような、暖かくて柔らかな光だった。
 自分には、少し可愛すぎるような水色のパジャマが着せられていた。
 ───俺は……ここは……
 目覚めがしらの興奮が冷めていき、静寂に包まれたベッドの上で一人、朦朧とした感覚の中に意識が落ちてゆく。
「………」
 十分な説明が無いままに、克晴自身の記憶も曖昧で、身に起こっていることが判り切れてはいなかった。
 おぼろげな記憶を手繰ろうとしてみても、頭は重く鈍くなり、思考が上手く働かない。モヤが掛かったように、視界さえも霞むようだ。
 白い天井をぼんやりと目に映しながら、感情も置き忘れてきたように、放心状態になっていった。
「──────」
 さっきは勢いで起き上がっていたけれど、どこにそんな力があったのか……今は指一本動かすのも怠くて、動かせない。克晴は横たわったまま力を抜き、重力に身を任せた。
 頭はもっと枕に埋もれていき、足先から宙に浮いて行くような錯覚が、上下を無くしていく。波に揉まれているような浮遊感、天井が回るような目眩…未だに船の上にいるのではないかという感覚さえ、湧いてくる。
 ───船……海…と、波だ───
 克晴は、瞬きと深呼吸を繰り返しながら、朦朧とした記憶の淵を辿っていった。
 
 泳ぎ切れなかったことは、覚えていない。でも、助かるとも、信じてはいなかった。
 ただ恵のために帰るんだと、泳ぎ続けた。体は失っても、心だけはメグの元へ…そしてそこへ、目指す場所へ辿り着けた気がしていた。
 ───眩しい光、温かい手……俺を呼ぶ声……
 
 虚ろな視界の端に、吊り下げられている点滴のパックが映った。
 そこから伸びた半透明の細長い管が、弛みながらもシーツの上を這って、左腕に繋がれている。管の上の方にある膨らんだ筒状の部分では、薬液がぽつり、ぽつり…と落ちていた。視線を留めて、それを見つめる。
 ゆっくりと落ちる水滴は、時を刻む。
 秒針のように、確実に、一滴、一滴、一滴、一定のリズムを刻んで落ちていくそれは、心臓の脈打ちにも似ていると、何となく感じた。
 
 ───生きている……
 ぼんやりと、そう思った。
 ───助けられた……助かったのか、俺は……
 
 ……あれは……メイジャーだったのか…
 
 
 恵に触れたと思った、温かな充足感……ふわりと、柔らかなその愛に包まれたと、感じていた。
 それを確かめようとする様に、克晴は無意識に、右手を目の前にかざしていた。
「……ッ」
 すっかり見慣れてしまっていたプレートが、手首に無いことに、一瞬ドキリとした。
 込み上げてくる苦笑いを押しのけながら、指を動かし、握り拳を作っては開いてみる。
 ぎこちなくも動く指の感覚が、腕に、肩に、伝わってきて脳に届いてゆく。
 ───生きている……
 もう一度、今度ははっきりと、そう思えた。
 
 その瞬間、克晴はブランケットを跳ね上げていた。
「生きてる…ッ!」
 小さく叫びながらガバッと半身を起こして、自分の体を確かめるように、腕や腹に視線を這わせた。
 そうしながら、見る見るうちに、顔が歪んでいく。
 吊り上がった眉の間には、深い皺が寄り、見開いた目には、涙が盛り上がっていった。
 
「─────メグ…」
 
 熱い歓喜の叫びが、掠れた声となって、唇から零れた。
 胸の底から、痺れるような感動が沸き起こってくる。
 体中が震えていくのを押さえられないまま、克晴は、嬉しくて、苦しくて、握り込んだ両手で顔を覆うと、膝に突っ伏した。
「───お……俺は…」
 絞り出すような、呻きだった。
「…まだ…死んでない………メグと同じ世界に…生きている……」
 ガクガクと、体が震え出す。
「……メグとまだ……同じ空間にいるッ…」
 
 魂だけじゃない、俺はまだ、生きてメグに逢うことができるんだ……!
 
 肩や腕を震わせながら、想いが、唇から心から漏れてゆく。
「───フッ……うッ…ウゥッ……」
 奥歯で嗚咽を噛み殺して、呻き続けた。
 両手で足下のブランケットをたぐり寄せて、掻きむしる。そこに額を押しつけて、涙の染みを作っていく。
「メグ…メグ……!」
 ───もう逢えないと…雅義のマンションでも、船の上でも、泳ぎながらも──
 どれだけそう思いながら、諦められなかったか。
 
 再会の可能性はことごとく踏みにじられ、別々の世界へと、生き別れた。
 もう一目見ることも、叶わないと……
 本当に肉体は別れ別れのまま、最期を迎えるのだと……
 だからこそ、命を捨て、穢された体を脱ぎ捨て、“恵への愛”だけが海を渡っていければいいと、願っていた。
 
 ───でも…俺は生きている───メグのいる世界に、帰って来れたんだ。
 
「メグ…俺たち…また、同じ世界だ……」
 際限なく目から熱い水滴がこぼれ落ちる。逆さになった額を濡らし、ブランケットを濡らす。
 “また逢えるかもしれない”
 克晴にとってそれは、生還したこと、肉体があることと同じくらいに、奇跡だった。
 逢える可能性がある…そんなこと自体、二度とないと思っていたのだから。
 
 克晴はその喜びに、胸が潰れそうに喘ぎながら、いつまでも声を殺して泣き続けた。
 
 
 
 
 
 
 打たれた新薬“Falling Angel”を、克晴の体内から徹底的に洗い流すための洗浄が、意識回復した後も暫く行われた。
 それも数日後にはドクターから、“Out of danger”が言い渡され、体に取り付けられていた幾つもの管が外され、体力回復の点滴だけとなっていった。
 
「三食完食できるようになったな、偉いぞ」
「すっげ…子供扱い…」
 毎日何回も様子を見に来るメイジャーは、顔色の良くなっていく克晴の頭を撫でては、満足そうに笑う。
「しかし、ウマくはないな。…船のメシが懐かしいだろう」
「………」
 克晴は苦笑いで返しながら、話したいことがつのっていく気持ちに、揺れていた。
 しかし、色々と聞きたい事や知るのが怖い事…心の中で整理の付かないものが多すぎて、何も訊くことはできずにいた。
 メイジャーも、敢えて深くは語らない。
 船にいた時のように側に居て、病室の正面奥、ベッドからは右側の壁が一面窓になっている下部に木製ベンチが造り付けてあるそこに座り、無言で克晴を眺めている事が多かった。
 
 グラディスの手配で運び込まれたという病院の、15階建ての14階に位置するこの病室の窓は広大な敷地の中庭に面していて、窓外には森のような木々の頭が見えている。あとは、春になりかけの水色の空ばかりが、広がっていた。
 
 日本ではない、どこか…。空の色も、空気の匂いもきっと違うだろう…。
 それでもこの空は、恵の居る空の下に繋がっている───
 横たわりながら見上げる景色に、克晴は今までにない感慨を、覚えていた。
 
 雅義のマンションの窓からも、船のデッキの上からも、時々空を眺めていた。白い個室に閉じこめられている状況は、現在も変わりはしない。
 けれども、あの時の絶望と体の苦痛が、今は無い。メイジャーは今、克晴に口づけひとつ、要求する事はなかった。
 穏やかに過ぎる時間、平和とさえ思える空間───この眩しいような一瞬の連続を、不思議な気持ちで過ごしていた。
 
 
 
 カタン…という音で、我に返ると、そろそろ風が冷たくなってくる夕暮れ時、気が付くとメイジャーはいなくなり、代わりに黒装束の青年が、換気のために細く開けていた窓を、閉めてくれていた。
 
 逆光で完全な黒いシルエットとなった引き締まった長身が、形の良い腕を伸ばして、するすると天井からのブラインドを降ろし、暗くなった部屋の照明を点ける。
 何も言わずにずっと考え込んでしまう克晴の身の回りを、この双子の右側に位置する青年プルクスが、時折面倒をみていた。
 
 メイジャーの手が行き届かない細々としたことを、いつの間にか病室に訪れては、無言でケアしていく。
『意識がない貴方を介抱していたのは、メイジャー様ですよ』
 なんでグラディスの部下が、自分などの世話をするのか? 克晴が一度だけこの青年に訊いたことがあり、その時プルクスは漆黒の瞳を少し陰らせてから、質問には答えずに、違うことを語り出した。
 銃傷の再縫合のすぐ後だというのに、克晴の枕元に立っては、乾いた唇に水差しで潤いを与え、体を拭い、医療以外のボディタッチは、誰にもさせなかったと言う。
『……………』
 克晴は、自分が質問していたことも忘れ、教えられたメイジャーの行動について、何も返答出来ないでいた。
 
 
 
 数日後、やっと最後の点滴の針も抜かれ、総ての拘束から克晴は解放された。
 その日、ナースが引き上げていくのももどかしいように、メイジャーとプルクスが、毎日見せる顔とは違う気配を漂わせて部屋に入って来た。
「シレンの意識が、戻ったらしい」
 静かにそう言うボスの顔に、これまで見たこともない安堵の色を感じ取って、克晴もまた、喜びの声を上げた。
 
「……俺も行く…!」
 


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