chapter21. Same Time ~甦生~
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 5
 
「もっとしがみつけ…腕に力が、入っていないぞ」
 帰り途中にそう低い声に促されて、克晴はためらいながらも、首に回す腕に力を込めた。
「………」
 行きにはあんなに居心地の悪かった背中が、今はそうでもないことに戸惑っていた。
 温かくて広い背中、一歩一歩進むごとに上下に揺れる感覚、力強い腕。
 ───これは……
 行きに感じていた、やり場のないような気恥ずかしい感じ、照れくさくて落ち着かない感覚は、刺さってくる視線を気にしていただけではなかった。
 
 ─── そうだ……父さんの…背中だ。
 
 懐かしくもあり、頼もしくも感じ…そして、胸が締め付けられるような、幼い記憶を思い出す。
 弟がまだ生まれる前の、よちよち歩きの克晴を野球場へ連れ回していた頃の、父親の背中だった。
  
 克晴はまた複雑な気持ちが湧いてくるのを、感じた。
 メイジャーという、この大男。麻薬密輸取引の橋渡しを生業とし、裏社会で暗躍するブラックキング。どれだけダーティーな面を持っているか、克晴にはまだまだ計り知れるものではなかった。
 初めて見た時のボス・メイジャーの威圧感は、チェイスよりも遙かに恐ろしかった。
 そして時折見せる容赦のない暴力、カルヴィンが漂わせた凶器のような殺気、シレンの銃の仕込み…、垣間見えたそれらだけでも、まっとうな精神の世界ではないのは、判る。
 
 しかし、克晴はどうしても、思ってしまうのであった。メイジャーの事を、“不思議な悪党”だと。
 やってきたことは「悪」そのものであろうはずなのに。
 背中から伝わってくる、温かさと安堵感に、負の臭いは感じない。
 ───悪党だけど、そうじゃない…
 この男は、本当は仕事なんて、善でも悪でも構わないのじゃないか。巧い仕事であれば、裏でなくても良かったのではないか。
 このような関係を作っていける、“ファミリー”さえ、大事にできるのであれば…。
 
『…ありがとう…』
 
 シレンが嬉しそうに微笑んだあの言葉──受け入れてくれて、嬉しいよ── そう言ったように、克晴には聞こえていた。あの灰色の瞳にも、この姿が父子のように映ったのではないか?
 散々同じベッドで寝させられても、拒否し続けていた二人だった。それを、こんな形で自分は受け入れたのかと、克晴は気づかされたのだ。
 ──“愛人”なんかじゃない。……家族のような、この柔らかな居心地なら…
 
「どうした?」
 背中の様子を窺うように、メイジャーが突然聞いてきた。
 斜めに振り向いた顔が近すぎて、克晴は背中の上でのけぞった。
「…なんでもない……」
 心を見透かされたかと、焦っていた。
「……次は…自分で、歩けるからなッ」
 もしメイジャー達と一緒に、俺がマフィアになったら、どうなるだろう──など、今までは考えるはずもない、まさかの「もしも」をちょっと思いついて、克晴は知らずに口の端を上げていた。
 クスリと笑った自分の顔を見られたかと思ったら、赤面しながら体温も上がっていくのを、止められなかった。
 
「いいから、今はしっかり乗れ」
 低く笑いながら、暴れるのを背中で担ぎ直す。ゆっくり歩いているため、克晴の病室まではまだ少しあった。
 妙に楽しそうなメイジャーの横顔。それを眺めても、今の克晴にはやはり、ボスと言うよりは…
「…俺…」
 言われたから渋々といったふうに、しがみつき直した。
 広い背中に胸を密着させ、太い首に腕を回すと、再び体温を全身で感じる。
 
「……俺…メイジャーのこと…」
 不意に湧いた奇妙な衝動が、勝手に口を動かしていた。
 
「…………」
 肩越しの顎髭を見つめながら、思う。
 “会って良かった”などと言えるほど、身に受けたことは生易しいものではない。
 自分は何を言おうとしたのか…言い淀んで、口をつぐんだ。
 
 ───冗談じゃない…あんなのが毎晩繰り返されたのは、本当に辛かった……
 だけど───シレンとメイジャー達に出会ったこと、それ自体は……
 
 
「俺は…二人愛すなんて、今も解らない……。でも、一人を愛し続けることを…迷っていた」
「…………」
「もし自力で、雅義から逃げ出していても……今のこんな気持ちで帰ることは、出来なかっただろうから。……だから…」
 
 一人呟くように言うそれは、メイジャーに対する、克晴からの初めての、告白であった。
 メイジャーは何も言わない。
 振り向きもせず、ゆっくりと克晴を負ぶったまま、廊下を歩き続ける。
 数歩後ろでは、プルクスもまた沈黙を守りながら、空の車椅子を押している。
 すでにエレベーターを降り、H状の渡り廊下も渡り、通路の突き当たりの個室へ近づいていた。
 
 
 いつもなら思考を先回りして、克晴自身も気が付いていなかったようなことを、当然のようにして語る低音が、発せられない。無言の間を感じながら、克晴はほっとしていた。
 今の気持ちを、代弁されたくはなかった。
 良い悪いなどという簡単な事では片づかない、複雑な感情を言い表せないでいる。それは、克晴だけが下せる結論であり、想いだった。  
 
「………メイジャーは……なんで、そんなに人の心が、読めるんだ?」 
 想いを探るのを諦めて、克晴は今も感じたそれを、訊いていた。
 ───読めるというか、解るというか…。翻弄するのが、巧いだけなのかもしれないけど……
 ベッドでの押し問答を思い出すと、今でも冷い汗が出る。あんなふうに追い詰めるには、相手の弱い所、弱い所、って見抜いていかないと、出来ない……
  
 肩越しに半分振り向いた顔が、ひょいと眉を上げてから、ニヤリと笑った。
「誰にも言うなよ」
 おどけた口調で唇をとがらすと、
「人間って言うのはな…本当は、強いだけの奴も、弱いだけの奴も、いないんだ」
「………」
 黙って見返す克晴に、今度は優しい光を瞳に宿して、諭すように話し出す。
「誰もに強い部分があり、弱い部分がある。それは人間である以上、絶対に誰でもそうだ」
「………………」
「誰でもつねられれば痛いのが同じように、どんな屈強な奴でも、痛いものは痛い」 
 
「だからオレの中にも、弱い自分がいる。そいつと向き合えば、お前みたいな奴の心でも、判る。……それをいかにも読み当てたように、言えばいい」
 最後はもっともらしく、眉を顰めて見せた。
 
 ───メイジャーの中にも…
 
 弱いから、判るって? ……こんな自信の塊のような、男が。
 克晴は、自分の弱さを恥じ、嫌い、見ないようにさえしてきた。強い部分にだけ、しがみついてきた。
 しかし、屈強な男が平然と、己の内の弱さを語る。
 隠す気配のないその声は、裏表のないメイジャーそのものであった。
 ───これがメイジャーの、強さなのか…
 
『これがメイジャーの、懐の深さなのか…』
いつかの思いが重なって、蘇る。
克晴は改めて、キングの大きさを感じていた。
 
 
「……グラディス…にも?」
 ふと、思ったことだった。
 対局にいる、もう一人の王者。銀の体に、氷鉄の心を持つ。
 人を人とも思わないあの男に、弱さなんてあるのか。
「グラディスにも、だ」
「………」
 もちろん、と言ったふうに即答されて、克晴は黙った。
 ───とても想像がつかない…。
「人である限り、“こいつに限って”などというのは、無い」
 
「──────」 
 グラディスに関しては、納得できない……しかし、聞かされる言葉は、克晴の耳にひどく印象に残っていった。
 ひとつひとつ、いつもメイジャーの言葉は、胸に刻み込まれていたと気づく。
 
「……メイジャー……俺…メイジャー達に教わったこと、沢山ある」
 
 
「…この出会いは、俺にとって───とても、大切だった……と…思う」
 
 
 
 ゆっくりと、探りながら、絞り出したような感覚。
 良い悪いでは分類できなかった、自分の中のメイジャー……どうしても認めることを許せなかった心の中に、今、湧いて出てきた感覚。
 しかし、これを受け入れるのですら、今までの克晴には辛いことが多すぎていた。
 
「そりゃ、当然だな」
 言葉通り当然のように自信を含んだ呟きは、克晴の答えに満足しているように響いた。 
「お前は、出会った頃に比べたら、数段成長している…強くなったな」
 背負い直しながら、ぽんと、尻を叩く。 
 思いがけない労いに、克晴は息を呑んでいた。
 
 ───ずっとずっと、願い続けていた。強くなりたい、大人になりたいって。
 抱き続けた、悔しい思い。いつも自分に、嘆いていた。
 
 ………俺は…強くなれた。運命に勝ったんだ───
 
 
 
「居心地がいいのか?」
 降りないのかと、笑いながら揺すられて、克晴ははっと我に返った。
 いつの間にかもう病室に着いて、ベッドの前で、背中にいつまでもしがみ付いている自分がいる。
「お…降りるッ!」
 あんなに恥ずかしく思っていたのに、帰りはあっという間に着いてしまったみたいだった。背中から離れがたいように感じながらも、嫌がっていた手前、素直に降りるしかない。
 飛び降りてベッドに座る、眉を吊り上げている克晴を、プルクスは可笑しそうに目を細めて眺めていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 間もなく病室から出たプルクスの元へ、彼と同じ外見をした青年、黒髪黒肌に黒衣装を纏ったリゲルが走り寄ってきた。
 グラディスは、双子であるカスターとプルクスに背格好の酷似した青年を揃え、手駒として表向きではない組織を作らせていた。
 “冬のダイアモンド”になぞらえた記号を配された、双子を筆頭とした6人が主立って活躍し、それぞれの持ち場に着いている。外にいるはずのリゲルが院内にいるのは、仕事の報告であろう。しかし、自分の元へ走り寄ってくる空気に、プルクスは漆黒の眼を輝かせた。
 
 雅義の入っているICUは、シレンの病室とは同じ通路に並ぶナースセンターを挟んだ反対側に、位置していた。
 重度の火傷と骨折、全身打撲、内臓破裂と、瀕死の重傷を負った雅義は、心電図の波形が不定期で、いつ止まってもおかしくない状態であった。
 何も言わずに腕組みをし、ずっとその横に立つグラディス。
 時折そこから出ては、シレンの様子を見に行っていた。それはもちろん、克晴が察していたとおり、心配や情からなどではなかった。
 シレンに打たれた新薬は、開発者が定めた規定量を無視した、数倍の濃度であった。それを幾度も、打っている。
 それでも意識を取り戻したとき、記憶は有るのか、はっきりした意識を保っているのか。いわば、これから自らが捌いてゆく新薬の効果を知る、披検体であった。
 
 
 シレンの意識が戻り、駆けつけたメイジャーと克晴が会話を交わしている。
 それを観察しながら、シレンに施した洗浄液の適合具合を、確認する。克晴の目覚めの時も、同じ理由から立ち会い、観察していた。
 この病院は、グラディスの息が掛かった研究所でもあった。船から降ろした重傷の三人を手早く担ぎ入れ、新薬への処置をすぐに対応できたために、二人は手遅れにならずに済んでいたのだ。
 
 結果が出るのは好ましい。グラディスにとって、今後の捌き加減に関わるため、新薬の記録を、こんなにも早く録れるのは、好都合でしかなかった。そして、例え二人が助からなかったとしても、“披検体として役に立った”と冷笑をこぼしかねない、克晴が思うとおり、氷鉄の心の持ち主であった。
 しかし、その表情はいつまでも硬く、他の仕事のどのような報告にも、眉一つ動かさない。言葉ではなく、眼で語る主人なだけに、黒子達も表情を失っていた。
 雅義だけが、いつまでも死の淵を彷徨い続ける。
 助かる見込みが一桁のパーセンテージを越えない様子に、銀の双牟は光りもせず、屍のような重体者を眺め続けていた。
 
 
 プルクスは一番の側近がゆえに、殊更マスターの様子に、黒い瞳を陰らせていた。
 3人が運び込まれ、何日が過ぎても、誰も目覚める気配がなかった。
 早く様態が安定することを、日々祈るしかない…そんな焦れた時間の中で、プルクスは、もう一つの心配を、していた。
 ──克晴が死んでしまったら、回復しきれなかったら──
 雅義が意識を取り戻したとき、きっと哀しむであろう。それをマスターは感じる……それを、できることなら防ぎたかった。
 そのため、雅義の目が覚めるまではと、克晴の様子を見ては、ケアをしていたのであった。
 グラディスがICUを離れるときは、カスターが定期的に確認しに戻っていたが、情に掛けては彼の方が希薄である。しかし長引く現状に、そのカスターの眼もいつしか曇っていった。
 
 
 
 リゲルと集中治療室に戻ったプルクスは、カーテンを閉めてある部屋の中が、いつもより眩しく感じた。
 見慣れてしまった酸素マスクの中が、今までになく曇っている。
 胸が大きく上下し、真上を向いたきりだった包帯を巻いた顔が、少し向こう側に傾いている。
 その先に、グラディスの流れ落ちる銀髪が、輝いていた。
 


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