chapter21. Same Time ~甦生~
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 3
 
 シレンの様態は、度を超えた新薬投与により、危険な昏睡状態が長く続いていた。
 それは克晴より遙かに酷く、目を開けた後も意識混濁が続き、廃人のようにうつろで、ドクターの呼びかけに応えることはなかった。また、全身に凍傷を起こす重体でもあった。
 泳いで体を動かしていた克晴と違い、長時間凍てつく海水に冷やされ続けた身体は、特に末端の足や手の指先に重傷を負い、壊死を起こし掛けているとまで、診断されていた。
 
 凍ってしまった毛細血管や細胞を、活性化させようとする場合、決して擦ったり揉んだりしてはいけない。細胞が壊れないように蘇らせるには、一定温度でじわじわと、温め続けなければならなかった。
 そのため、シレンの身体は特別な保温機に入れられていて、外から意識が戻るのを眺めて待つしかなかった。
 
 
 その話だけ聞かされていた克晴も、気が気ではなかった。ようやく自由になった身で会いに行けることを、心底喜んだ。
 ───それなのに。
 
「えっ、……ちょ…メイジャー!?」
 まだ抜糸も済んでいないはずの巨体が、右腕の三角帯を外し、ベッドの上の克晴を、抱え上げようと腕を伸ばしてきた。
「俺…歩けるから…」
 点滴をしていたって、室内にあるトイレには自分で行っていたのだから、当然の話だった。
「シレンの病室までは、かなり遠い。まだお前には、歩ける距離ではない」
「いや…だからって」
 両腕に抱きかかえられて廊下を移動するなんて、恥ずかしくて冗談じゃない。
 しかも、傷は平気なのか…? いくら不死身と豪語していても、怪我は怪我だろう。
 
 腕を振り払って嫌がる克晴の様子を見かねたように、部屋の入り口で待機していたプルクスが、
「背負うのは、いかがですか」
 その横には、車椅子が用意してあった。しかし、メイジャーの様子を見てのその提案だということは、声と視線に含まれる微笑の中からも判る。
「………」
 克晴は赤面した顔でへの字口を作り、メイジャーを見上げた。
「乗れ」
 ニヤリと片頬を歪めて笑い、背中を向けるボス・メイジャー。克晴は、逆らい続けることはできないと観念した。
 
 大きな背中に身を預けて揺られながら、廊下を進む。それはまるで、あの船に乗っているような感覚に、似ていると思った。
「……腕は、平気なのか?」
「肩を縫っただけだ。骨折しているわけではない」
 
 温かい背中は居心地がいいとは、言えなかった。
 メイジャーの上では2mを越えている、視線が普段ではあり得ない高さにあり、すれ違う人がそれを見上げて来る。
 そしてガウンの下には、腹帯を巻いているのであろう、筋肉とは違う感触が、パジャマを通して克晴の胸や腹にも伝わって来る。
 
「傷が開いたり、しないのか? ……腹も縫ったんだろ…腹筋を使ったら…」
「こんな軽い体で、何を言っている」
 鼻で笑うようにあしらうと、背中でひょいと決して痩せすぎてはいない克晴を、抱え直してみせる。
「傷などもう塞がっている。心配性のドクターが、抜糸をしないだけだ」
 ……そんなはず、ないだろう。
 そう思いながらも、それ以上心配しても無駄だと、克晴も黙った。
 この、恐れる物など何もないと言う不敵な物言い。船の上ではいつも懐に抱き込まれて、背後から耳に囁かれていた、重低音だった。
 
 それなのに今、太い首にしがみつくように腕をまわし、自分がメイジャーの耳元で喋っている。
 キングの響く声が顎下から発せられる度に、分厚い体の背中で振動する。それを実感するのがとても妙な感じで、変に落ち着かない。
 このむず痒いような気持ちが何なのかも判らずに、早く飛び降りたいとばかり、克晴は考えていた。
 
 
 エレベーターで階下に移り、長い通路を移動し、やっと辿り着いた目的の処置室は、ナースセンターの直ぐ横にあった。
 ドアの前にはすでに、グラディスと側近である双子のもう一人、カスターが待っていた。
 白い廊下に居てなお、輝く銀の髪を腰まで流す白のスーツは、目映くその長身を引き立てている。横に控える青年も、全身黒で揃えながらも、しなやかな肢体と洗練された佇まい、凛とした漆黒の瞳は、主人に華を添えるにふさわしく目を惹いた。
 
「──────」
 黒いガウンに身を包んだ、熊のようなキング・メイジャー。キングはその格好でも、威厳を失うことはない。
 しかしその背に負ぶわれている、水色のパジャマの克晴、背後から空の車椅子を押してくるプルクス。
 どう言い訳しようと、言い逃れのできない滑稽な恥ずかしさが、込み上げて来る。
 
「お……降ろせ、メイジャー!」
 
 目の色一つ替えずに、この光景を眺め上げてくる正面の二人に、いたたまれない気持ちが、マックスを越える。
 真っ赤になって慌てたのは、克晴だけだった。 
 
 
 
 
 
 
 
 処置室の中には、ビニールで覆われたベッドが一つ、周り中にごつい機械がひしめいていて、中央で赤毛に覆われた白い顔が、枕に埋もれていた。
「……シレン」
 メイジャーが呼びかけながらそっとその中に入ると、ぼんやりとした目が、ゆっくりと動いた。
『触って揺すったりは、しないでくださいね』
 しもやけや水疱などの皮膚荒れも併発していて、肌が酷く敏感になっているらしい。ドクターからきつく言われているせいで、抱きしめることもできない。
 シレンの手先には、大きなミトンのような布袋がかぶせられて、配線と共にベッドに固定されていた。
 
「…メ………メイジャー……?」
 首が微かに傾げられて、灰色の双牟が瞠られた。雄々しい眉と眼を持つ、黒髪を掻き上げた男を、その瞳に映した。
 
 克晴と同じ反応で、信じられないと言うように、細い眉を寄せて、首を横に振る。
「……うそ…うそだ」
 唇が弱々しく震えて、声が絞り出された。
 見開いた眼に疑惑と困惑が入り混じり、どんどん興奮していく。首の振り方が激しくなっていく。
「──死んだって……脳天ぶち抜いたって……あいつが……」
 白い頬が高揚し、もっと何かを叫びそうに、口を大きく開いた。
 
「ん……」
 その唇に、髭を蓄えた厚い唇が、重なった。
 ベッドの脇に手を突き、巨体を乗り出したメイジャーが、小さな顔に覆い被さっていた。
「───ん……んっ…」
 熱く湿った舌が、優しく優しく、シレンの咥内を、奥深くまで舐め回す。
 乾いた舌を絡め取ってねぶりあげ、自らの潤いを流し込んでいく。
 啄んでは重ね合わせ、角度を変えては吸われる唇……合間に漏れる、息継ぎの吐息と水音だけが、静かに響く。
 顎をのけぞらせて嚥下するシレンの白い喉が、克晴にはゾクリとするほど、艶めかしく見えた。
 
 ──死んだと聞かされていたメイジャーが、目の前にいる──
 パニックを起こしそうになったシレンは、濃厚な口づけを与えられ続け、混乱と困惑も忘れるほど、翻弄されていった。
 とろけるようなキスから解放された時には、放心状態になっていた。
 まだ鼻先が触れるほどの距離にある男の顔を、惚けて潤んだ目で、見つめる。
「……ハァ…」
 あとは視線だけで語り合うかように、メイジャーはその距離を、離さない。
「…………」
 深い緑を帯びた焦げ茶の双牟は、目眩と恍惚感のような輝きを湛えた灰色の眼を、瞬きもせずに映していた。
 それが己の顔だとも判らずに見つめて、シレンは眉を微かに寄せては、戻した。
 ぼんやりとした眼差しを、その都度揺らしながら、今しがたの吸い尽くされるようなキスに酔っていた。
 火照る頬、熱い体……唇の余韻。
「──────」
 官能の残響の内に思い起こされてくる、霞んでいた記憶……徐々に眉間のしわが深くなっていき、濡れた舌がうごめき出す。
 無意識に赤い唇を舐めては、何か言いたげに、咥内で震わせて…。
 
 そして突然、瞠った双牟を銀色に煌めかせて、心配げに見ていた克晴がぎょっとするほど、綺麗な顔を激しく歪ませた。
 甘美、苦痛、疑問、喜び……これが、失ってしまったと思っていた男の唇と熱で、散々“愛”を教え込まれた、舌での愛撫だと─────自分に口づけしたのが、紛れもないその人なのだと、シレンが認識した瞬間だった。
 
「…メイジャー……メイジャーッ!!」
 
 弱々しい声で、叫ぶ。
 固定された状態で、精一杯体をねじ曲げ、厚い胸板に顔を近づけて、そして信じられないという風に、まだ首を小さく振り続ける。
 抱きつきたいのに抱きつけない…。信じたいのに、それ以上の術がない……。
 メイジャーに縋って、その存在を確かめようとしているシレンの姿は、あまりに痛々しかった。
「…………」
 狂おしげに愛しい人を求める様子を、克晴は息を詰めて、見守る。
 そしてメイジャーも、持て余すように緩く肩に回した腕で、きつくその体を抱きしめられないでいる。
 二人はまた暫く見つめ合って、首だけ伸ばし、唇を押しつけあった。
「──────」
 紅く上気させ頬に、一筋……透明の輝きが零れた。
 
 
 ───シレン……
 克晴の胸に、泣きたくなるような熱い感情が走った。自分の想いの成就のような感動が、込み上げてくる。
 凛とした顔は少年のようであり、毅然としたNo.2であり、少女のようにも見えた…妖しい歌姫。燃えていく船底で、激しい感情を剥き出しにして、生きることを拒んでいた。
 ───諦めないでよかった…。シレンを連れ出せて、よかった…。
 心からそう思って、無謀な行動の結果に、感謝した。
 
 メイジャーがまさか生きているとは思いも寄らず、克晴自身、シレンも自分も助かるとは信じてはいなかった。
 しかし、体を張ったキングの行動とその遺言、そしてシレンの哀しい狂気…それが胸に突き刺さり、どうしても心を掻き立てられた。
 ───諦めなかった努力が、こうして二人をまた再会させることが出来たんだ…
 ……俺は、メイジャーの遺言を守りきった。
 ……二人の愛を…守ることができたんだ。
 
 
 どうして、なぜ…言葉少なに訊ねられる震えた声に、低く響く返答は、やはり「俺が死ぬものか」と笑っている。
 二人の姿を目に映しながら、克晴は今まで感じたことのない喜びを、味わっていた。どうしてこんなにも、涙腺が弱くなったのだろう。視界が滲み、目頭が熱くなっていく。
 
 
 
「……克晴」
 シレンに呼ばれて、ビニールの中に克晴も入り込んだ。中は少し汗ばむくらい、暖かく感じた。
「───ありがとう…君には感謝しても、したりないね」
 灰色の眼が、潤んだ輝きを残して見上げてくる。
「…………」
「……ボクを…連れてあの海を、泳ぐなんて…」
 今聞かされた事実に、シレンは「信じられない」と首を振る。
 そして哀しそうに眉を寄せて、喉を詰まらせては言葉を切って、
「───君には、何度も…救われた」
 また頬を、透明な筋が伝う。
 
 意識を取り戻したシレンに、新薬を打たれていた時の明確な記憶は、残ってはいなかった。しかし、何が起きたかは、おぼろげに感じる。
 自分の手でチェイスを撃ち殺したこと、克晴が常に助けようとしたことは、夢をみているような感覚で、記憶の片隅に揺れる。
 
「シレン…」
 笑みながら涙する双牟は、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
 メイジャーの寝室で二人きりのあの時のように、愛される喜びに満ちた輝きを放ち…… そしてその奥に、悲愴の色を湛えている。
「──────」
 克晴の心にも、喜びの中に、針を刺されたようにジクリとする傷を感じた。
 お互いに、言葉では言えない痛みを共有している。
「── 先に、シレンが…俺を介抱してくれたんだ」
 救うばかりじゃない、シレンがいたおかげで、自分は持ちこたえることができたと、そう言いたかった。船での生活も、“海に入る”と決意した時も。
 
「……ふ…」
 感謝と敬意を込めた克晴の眼差しに、シレンも応えるように微笑み返した。
 
 
 
 
 
 
「シレン、克晴、よく聞け」
 横に立ち、二人の様子を見守っていたメイジャーが、おもむろに口を開いた。
 
 
「……オマエ達は、一度死んだ」
 
 
 低い声をいっそう低く、静かに言葉を紡ぐその声は、妙に病室に響いた。
 


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