chapter21. Same Time -新星-
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 7
 
『薬絡みの事件に関わったカツハルを、そのまま家に帰すのは、危険だ。しかし本来、無関係の者──これからの事後処理中、手元に置くべきではない』 
 
『今回の事件は特に大きい。お前に危害が及ばないか確認できるまでの間、機関に動きがあるか様子を見る。少なくとも2年間…OKを出すまで、長めに潜伏していろ』
 
 そう前置いて指定された移動先は、雅義との逃亡生活で一時身を寄せた、教会であった。神父は変わらずに優しく、帰ってきた克晴を慈しんで迎え入れた。
 
 
 
 
 
 
「ちょっと、おじゃましますよ」
 髭の神父が4階のドアをノックし、部屋の主を眺めた。
「相変わらず、勉強熱心ですね」
 
「はい…教えていただいた通り、最初は流し読みをした後、解釈の教本と共に、とにかく読み直していましたが…」 
 専用に貰ってから何度も繰り返し読んでいる聖書にしおりを挟むと、克晴は顔を上げた。
「最近はよく頭に入ってくるようになり、読んでいると、楽しいです」
「なかなか素晴らしい“神父のたまごさん”ですね、フォッ!」
 大柄な肩を揺すりながら部屋に入り、横のベッドへ腰掛ける。
 
 その部屋は克晴用に、改装されていた。
 雅義が使っていたベッドはもう無い。代わりに机と棚が運び込まれ、たくさんの本で埋められていた。机の端には、調べては書き取ったノートの束が山積みになっている。
 横の窓から入る柔らかな陽の中で、克晴は恥ずかしそうに「たまごなんて、とんでもないです」と微笑む。
「……でも神父さんの真似をして、諳んじたりもしているんですよ」
 穏やかな黒い瞳に、神父は頭のてっぺんを指先で弄りながら、素晴らしい、素晴らしいと繰り返して、しきりに頷く。 
 
「4階の掃除はすっかりあなたに任せてしまって、助かります」
「いえ、お世話になっているのですから、やれることはやらせてください」
 この階には、他にも客室と小道具を放りこんである大部屋がある。季節の出し物の手入れなども、克晴は手伝っていた。
 外に出ることの出来ない身で、やれる事と言ったらそれくらいだった。それに、なるべく体を動かしていたかったのだ。 
 子供達や教会に訪れる人となるべく接触しないよう、行動範囲はかなり限られたものだった。
 
 
「ところで、お願いがあるのですが」
「…はい?」
「悩み相談にのる神父さんの役を、頼まれて欲しいのです」
 
「……は?」
 
「可愛らしいおちびさんが、悩み事で相談したいらしいのですが、あいにくわたしは出かけなくてはならなくて」
 
「───いえ、俺なんて…無理ですよ」
 
 人と関わらないようにしていたこの暮らしは、すっかり克晴を隠居人のようにしていて、いきなり見知らぬ人間との会話など、考えられなかった。
 ましてや、神父の代わりなど、出来るはずがない。
「自分なんかが代役なんて…罰が当たります、あの…もう一人の方は?」
 驚いて拒否する克晴に、
「彼は、私のいない間の神父さんですので、相談役まで手が回らなくて」
「……いや、…でも」
 髭の神父は、豪快に笑いながら問題ないと繰り返した。
「ただじっくりと、聞いてあげてください。何かを言おうとなど、しなくていいのです」
「………」
「答えはその子が自ら導き出すでしょう、それのお手伝いとして、聞いて上げれば良いのです」 
「……でも…」
「まあまあ」
 嫌がる克晴を宥め、強引に頼み込むと、神父は階下へ下りて行ってしまった。
 
「……………」
 一応の段取りだけを教えられて、克晴は呆然としてしまった。
 ───相談? この俺が…?
 神の子へとなる道へ進まないかと、神父に勧められていた。ここに送られて右も左もない克晴に神父は、新たな一筋の未来があることを教えていた。
 自分が神父になど…YESという解答があるはずのない克晴であったが、他にすることがなく、暇つぶしのように与えられていた聖書を読むようになった。
 だがそれは、克晴には思いの外、興味を引く対象に変化していった。
 そこから歴史をひもとき、宗教が絡んだ書物を沢山、取り寄せて貰っては読んでいく。
 政治を知り、世界を知り、キリスト教だけではない、世界中の“神”の正体を知っていく。そして、宗教の起源と概念、人間の関わり方……そこから伝わってくる、依存と信頼、謀略と戦争…歴史のありとあらゆる事柄が見えてくる。
 克晴は時々その中に、メイジャーが語った人間学を、感じていた。
 メモを取り、判らない単語は辞書で調べ…
 それはまるで、大学を中途半端にしてしまった分を、ここで取り戻すかのような、勉強ぶりと吸収力だった。
 
 ───でも……どれだけ聖書を読んだって、神を理解した訳じゃないし……神父様になれるわけじゃない。
「………断れればよかった…」
 無免許で法を犯すような、それこそ神を冒涜するような罪悪感が、いなめない。そして、見知らぬ人間との対話……降って湧いたあまりに急な頼まれごとに、克晴は憂鬱な溜息をついた。
 
 
 時間になり礼拝堂へ降りていくと、留守を頼まれている新米神父と、入り口で鉢合わせた。
 猫背をさらに丸めて、顔を赤らめてお辞儀をする。
「すみません…ボクの代わりに…」
 高めの小さな声がオドオドとした様子で、相談役の代行を謝ってくる。
「いえ、…しょうがないですよね……でも俺なんかがいいのか、心配です」
 困り笑いで、聖書を片手に髪を掻き上げた。
 形だけ神父のようにアルバを着る克晴の、サラサラと流れる黒髪は肩を滑り落ちて、背中まで届いていた。
 それを見惚れたように見つめて、新米神父はうっとりと言う。
「綺麗な髪ですね…」
「……切れないまま、来月で4年になります」
 
 
 
 
 
 神父の代わりなど、畏れ多い。相手にも、申し訳ないんじゃないか。
 いろいろ心に抱えながら渋々と、克晴は言われた懺悔室で“おちびさん”を待った。
 薄暗い小部屋の奥で息を詰めて座っていると、隣の扉がカタンと音を立てて開き、境の格子窓から、一瞬だけ外の明かりが差し込んだ。
 ───来た…!
 膝の上の聖書を両手で掴み、心臓を落ち着かせるために居住まいを正して、段取りを頭の中で繰り返した。
 
「………………」
 しかし、その子も緊張しているようで、なかなか喋り出さない。
 相手も同じように緊張しているのかと気づくと、少し肩の荷が下りる思いだった。
 
「……あの…聞いてもらえるだけで…いいんです」
 
 やっと聞こえてきた声は酷いガラガラ声で、呟くように小さく、暗闇の中ではあまりに頼りなくて聞き取りにくかった。
『アドバイスなど、考えなくてよいのです。ただ、聞いてあげてください』
 神父の言葉も胸に反芻しながら、必死に聞き漏らすまいと、声だけの告白に耳を傾けた。そしてその内容に、克晴は代役ということも忘れて、聞き入っていった。
 
 
「……自分が嫌いで……好かれる資格が…ないんです」
 
 この言葉には、ショックすらうけた。
 まるっきり自分が抱えていた悩みと、同じ台詞だったからだ。
 
「なんで?」
 
 思わず、疑問が口に出る。
 そして“しまった”と恥ずかしくなった。いくら何でも、そんな訊き方はないだろう。
 しかしそれくらい動転してしまうほど、身をもって体験してきた克晴には、聞き逃せない言葉だった。
 まだ本当に子供だろうに、語る内容と喋り方は、とても不釣り合いなほど大人びていると感じる。
 
 か細い声で切れ切れに、怖い思いをした…その相手から会おうと迫られて、困っている…と言う。
「このままじゃ、前に進めない…どうしていいか、わからないんです……」
 震えて、時々息を詰めながらしゃくり上げる。 
 
「好きでいるのも…好いてもらうのも……自分を好きになるのも───もう無理なの…? 僕……それが哀しいんです…」 
 
 悲痛な訴えに、克晴の胸も、締め付けられる様に痛くなった。 
 絞り出す声、泣いている気配……悲しんでいる隣の子に、なんとか言ってあげたい……知らずに唸りながら、心の中の奥底まで、言葉を探していた。
 ───自分なら…………自分なら?
 怖いからと避けていては、勝てなかった。運命に向き合ったから、勝てたんだ。
 
 
「……会ったほうが…いいんじゃないかな」
 
 
「……え?」
 
 思わず呟いていた言葉に、驚いた反応の声。克晴も自分で驚きながら、次の言葉は確信を持って、告げていた。
 
 
「進みたいなら、会った方がいいよ」
 
 
 ───後で後悔しても、何にもならない。……ここで逃げなかったら、きっと道が開けるんだ。
 それを言いたかった。
 深いことなど判らない…しかし、自分が辿って来た道を考えると、いつの時も“逃げ”は次の迷路を作り出すだけであった。
 
 それ以上は上手い言葉が見つけられず、返事も返ってこない。そのままうやむやのような状態で、終わるしかなかった。
 しかし克晴は、この子が心配になっていた。
「次もこの時間に、来てください」
 聞いているのかも判らない向こう側の少年に、言わずにはいられなかった。
 
 
 この時の相談が、克晴の胸を捉えることになった。
 ───何歳くらいなのかな…
 丁寧なしっかりとした言葉使いの中に、つたない様子が押し隠されているようで、実はとても幼い子なのかとも感じていた。
 しかし、どんなに子供だからと言って、辛いことが無いなんてことはない。そしてそれが“子供の悩み”とは限らない。
 それは克晴自身が、一番知っていることであった。
 だからこそ思った「会った方がいい」という言葉だったが、不用意に言ってしまった事を、ひどく後悔しいていた。
 ───神父にあるまじき、答えだった。
 危険に晒してしまうかもしれないのに……もし何かあったら、どう責任を取るんだ…。
 思い出しては気を揉み、聖書をめくる手が止まった。
 
 そして同時に、胸を捉えるもうひとつのこと…
 “愛される資格がない”
 その言葉のせいか、妙に少年のことが気になった。
 暗闇の中に浮かぶ、黒いシルエット。顔も判らないのに、深く心に入り込んでくる。
 ───よりによって、自分に相談してきた子が、あの言葉を言うなんて…。
 壁を通して心に突き刺さってきた哀しみは、穏やかになっていた克晴の心を波立たせていた。
 消化できている事とは言え、忘れられる痛みではない。
 同種の哀しみを感じ取り、妙に共鳴したような感覚を起こさせた。
 たった一回会っただけの声だけの告白に、運命のようなものを感じていた。
 
 ───“俺なら”なんて、思ってしまった。でもそうじゃない。
 俺だからこそ、判ることがあるはずだ。あの子の立場で、考えないと……
 もっと大切に、言葉を聞いてあげなければ───
 代役と言えども責任はある、それを痛感した出来事でもあった。
 
 
 心配していた2回目は、初めよりは緊張しないで聞くことができていた。
 どうやら解決出来たらしい前回の相談事に、克晴はほっとしていた。
 もう迂闊なことは言わないように、気を引き締めて聞いていると、告白は引き続き、少年の悩みは他へと移っていた。 
 友達のこと、自分のこと、迷いと戸惑いで先が見えないでいる。
 蕩々と胸の内を語る声は、神父である自分に“どうしたらいいか”とは質問してこない。喋りながら整理を付けているのが、回数を重ねる毎に克晴にも感じられるようになっていった。 
 
 
 
『克にぃ、ねえ、どうして?』
『克にぃ、教えて!』 
 胸に飛び込んできて、何でも聞いてきた小さな弟。見上げてくる顔は、目をキラキラさせて、期待に震えている。
 克晴を頼り切って、兄に訊けば何だって教えてくれると信じている。その小さな体を抱きしめては、頬ずりしながら答えてあげていた。
 ───あの子は今、どうしているだろう…
 
 思い出しては胸が痛くなり、早く逢いたいと願っていた。
 “いつか恵に、逢える時がくる”…それが、閉じこめられた生活の中で、唯一の希望の光だった。
 ───俺の事を、どう聞いて、どう思っているのか。メグは、どんな風に育っているんだろう。
 ……今はもう中学生のはずだ。ちゃんと学校へ、通っているのだろうか。
 
 
 毎週相談に来る少年の告白を聞きながら、克晴はいつの間にか自分を慕ってくれる雰囲気の、顔の見えないその子に、弟の面影を重ねていた。
 
 泣きながら『僕…』そう言った時の声、時々はにかむように笑う気配…それらが、まるで恵みたいに思えていた。
 枯れたようなガラガラ声は、似てもにつかない。なのに、端々に感じる気配が、妙に何かを掻き立てられる。
 ───いつもいつも、メグのことを思っているから…
 ふと苦笑いで、口の端が上がる。
 逢いたいと思うあまり、同じ様な歳の子を重ねてしまうのかと哀しくなり、反省もしてみる。
 しかし週を追うごとに、それを止められないでいることに気づく。
 ……メグにだったら、何て答えてあげるだろう。
 ……恵にだったら、こんな風に導いてあげるのに。
 見えない隣の子に、そんな想いを抱きながら、聞くようになっていった。
 
 
 
 
 
 冬も終わりかけた頃、堂々巡りの“迷い”が、少年から聞こえてくるようになった。
 自分がどうしていいか、わからないでいる。それと、流される日々の中で、何かを失ったような感覚さえ、消えてゆく…と言う。
「……なんか、不思議。心がぽっかりしたの、最近は無くなってきたかもって……思います」
 
 話すうちに辿り着いたというような呟きに、克晴は狂おしい記憶を甦らせていた。
 自分が辛いことを抱え込み、それでも生活していけることに驚いて。
 恵に言った事があった。
『……不思議なものだよ、いろんなことに慣れて行く』
 射精後の罪悪感に泣く恵に、そんな言葉で慰めた。
 沢山教えたいことが、まだまだいっぱいあった。恵が泣かないように。自分の経験の総てを注いで、教えてあげたかった。
 その想いが募っていく。
 同時にやはり思う、人はどんなことにでも慣れていく…嘆き続けはしないんだと。
 
「そうやって、慣れていけるんだ。……人間て…不思議な生き物だね」
 
 記憶の中の台詞を思い出しながら、繰り返していた。この子にも、同じように教えてあげたいと感じていた。
 そしてふと、もう一つのことも聞いてみたい衝動に駆られた。
「……君は、何がしたいのかな?」 
 克晴の耳には、いつも“わからない”としか届いてこない。
 どう考えているのかを、知りたかった。そこから答えは、導き出せるであろうに。
「………」
 じっと耳を澄まして返答を待っていると、暗がりの中で、格子窓の向こうからは息を呑む気配。
 ─── そして、
「……しらない…」
 小さく、それでもはっきりと、そう呟く声が聞こえた気がした。
 
 
 
 
 
 
「神父さん……人は死ぬと、どうなるんですか?」
 
 はっきりと質問を受けたのは、これが初めてだった。
 克晴はこの教会に来てから、ずっと聖書を読んでカトリックの教えを学んできた。
「キリストの教えでは……“死”が終わりでは、ありません…」 
 自然と出てきた、毎日のように諳んじている一部を口にして、そして思う。
 ───心は、側に行ける。
 神の御元などは、実のところ、まだよく判らなかった。しかし肉体が滅びても、心はずっとあると思えた。
 いつまでも、見守っている……愛しているよと、伝えてきた言葉……恵が同じように自分を想う限り、それは永遠だと、海を渡りながら感じていた。
 その思いを込めて。
 
「安らかな魂は、天から家族や近しい親類、……愛しい人たちを、見守っているのですよ」
 
 思わず出そうになった“メグを”……その言葉を呑んで、克晴は、聖書に置いた右手を握りしめた。
 


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